さいたま市の国際芸術祭は、2020/8/3のブログでお伝えしましたように、春の予定が延期されていました。
10/17開幕しました。予約制でかなり混んでおり、1週間後にようやくチケット(メインサイト:旧大宮区役所)がとれました。一昨日夕方、鑑賞してきました。
現代美術・芸術の評価はなかなか難しいところです。
一緒に出かけた家内はたいへん厳しい意見でした。
全国で現代美術の祭典がビエンナーレ(2年ごと)、トリエンナーレ(3年ごと)などとして開かれています。昨年、あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展」は政治に踏み込んだとして芸術の厳しい一面が明らかとなりました。芸術の本来的な意味が問われたと言ってもよいと思います。
さいたま国際芸術祭は2016年まで「さいたまトリエンナーレ」だったそうです。私は昨年引っ越してきましたので、前回までの芸術祭は知りません。
私自身、現代美術の祭典を多く見てきたわけではありませんが、クリストの作品で目覚め(2020/6/3のブログ参照)、2016年秋の「茨城県北芸術祭」で地方の芸術祭に関心を持つようになりました。2018年秋には新潟市の「水と土の芸術祭」に参加しました。同じ新潟では越後妻有地域(十日町市、津南町)のトリエンナーレ「大地の芸術祭 越後妻有アート」が有名です。親戚に現代美術の実践者がおり、その作品鑑賞に富山まで出かけたことは2019/11/8のブログに書きました。こうした自体験を踏まえ、さいたま国際芸術祭2020を私なりに評価しました。いずれ多くの人から最終的な評価が出てくると思います。
芸術と医学との比較は不適切との指摘は十分覚悟のうえで言いますと、私は医学研究と同様の評価基準を芸術にも持っています。
第一はオリジナリティ。見たことも聞いたこともない創造性です。時代を超越した衝撃性と言ってもよいかもしれません。一方、仮に「あり得る芸術」とみた場合はその努力性です。どれほどの時間と労力を要したか、は一つの評価点です。三番目の視点は「今」を問う現在性です。二番目の努力性も三番目の現在性も、結局は一番目の時代を超越した衝撃性に通じるという不思議な関係があります。
上記の私的な評価基準をもとに選ばせていただくと、今回のさいたま国際芸術祭(メインサイト)の一押しは篠田太郎氏の「ニセンニジュウネン(year twenty twenty)」です。撮影してもよいとのことで砂山をコンパクトカメラに収めました(写真)。
えっ、何がよいの!?
細かな砂が絶えず降り落ち、砂山を形成しています。
えっ、この先はどうなるの!?
会場は廃舎となった旧区役所。床は剥がれ、断線したケーブルが散乱しています。その部屋に降りしきる砂。いずれこの空間は砂で埋め尽くされるはずです。2020年の先、行く末が見えて来ないでしょうか。
創造性・努力性・現在性の3つが揃った作品だと読みました。
動画*も参考になるかもしれません。
*https://www.youtube.com/watch?v=fws6OgCcmDg