「なぜ、さいたま記念病院だったのか。いずれお話しします。」
6月28日のブログでお伝えしました。
そのときが来たようです。
私をここに誘ってくれたのは事務のTさんでした。
Tさんとは10年ほど前、茨城県で一緒に仕事をしました。
民間の考え方・手法を県立病院に導入してもらいたく中途採用した事務職員でした。彼は看護師でもありました。昔、手術室勤務の時の針刺し事故でC型肝炎となり、肝硬変にまで進んでいました。彼の自宅は神奈川にあり、50歳代後半からの単身赴任で茨城に来てくれました。
独特の語りと行動力で私たちを惹きつけました。県立病院のV字回復に貢献してくれました。
その最中に肝臓がんを患い、切除したものの術後肝不全に陥って生死の境をさまよいました。そして奇跡的に復活しました。これが契機になったのだと思います。家族のいる神奈川に戻ることになったのです。
ささやかな送別会を事務局が中心となって開きました。日曜日に皆が集まってアパートの引越しを手伝い、手を振って別れました。これが今生の別れだと思って手を振りました。あの肝臓では厳しいだろうなという予感がありました。
その後、7年の歳月が流れました。
昨年秋、私が茨城から埼玉に引っ越すことを決めたとき、私自身、人生の最後をどう締めくくるか、真剣に考えました。その結論は、「今までの経験を生かし、自治医大の学生に強く勧めていた総合診療を自らが実践する」というものでした。
それにふさわしい場所を探しました。埼玉の大病院にその場所がないのは当然です。中小病院を探しました。老健や特養も視野に入れましたが、どうしても総合診療にこだわりました。一介のレジデントとして気兼ねなく学べる所はないか。そう簡単に見つかるものではありません。
そのとき、Tさんが埼玉にいるという噂を耳にしました。そうならTさんに聞いてみよう。急に思い立って、彼の電話番号を調べるため病院の電子カルテを開きました。肝臓がんの手術のときの情報があるはずだからです。驚いたことに、Tさんは再発肝臓がんの新薬の治験のために、偶々その日、同じ病院に1泊入院していたのです。何という偶然でしょう。
すぐに病室に向かい、久しぶりの再会を喜び合いました。訪問の理由を話し、私の目的に合う病院を紹介してよ、と頼みました。
程なく、Tさんから「俺の勤める病院に来ないか」という誘いがありました。「小さな古い病院だし、経営者はあまり良い人ではないけど、素晴らしい医師がいる、事務も看護師も職員がすごいんだ。永井先生が学びたいという総合診療の場として絶対お勧めする」。
Tさんのいる「さいたま記念病院」をネットで調べました。評判は必ずしも良いものではありませんでした。「あまり良い理事長ではない」というTさんの意味が分かりました。
しかし、私としては総合診療の勉強ができるかどうかがポイントです。理事長が良かろうが悪かろうが関係ない、という立場でした。安定した病院だと70歳過ぎの元外科医にレジデントの仕事を与えてくれるわけがありません。さいたま記念病院なら地道な仕事ができるのではないか、と直感的に思いました。
Tさんの案内で昨年暮、さいたま記念病院を訪問したとき、N先生に初めてお会いしました。会った瞬間、私は決心しました。病院運営には関わらない名誉院長かつ総合診療科医師として翌年4月から勤務する契約を即座に結びました。
N先生の老年病学・循環器内科学・総合診療学への造詣の深さに感嘆したのです。Tさんが「素晴らしい医師がいる」というのはこのことだったのです。Tさんとの劇的な再会も縁だと思いました。
ところが、赴任前の今年2月ごろ、さいたま記念病院を巡る怪情報が茨城にいた私の元にも回って来ました。さいたま記念病院への赴任を思いとどまるよう直に進言してくる者も何人かいました。断固断りました。だからどうだというのだ、と。
N先生に電話して「いろいろな噂が広がっているけれども私はN先生に最後までついて行きます」と伝えました。N先生は喜んでくれました。
もう1つ私がこだわったのは、Tさんの病気でした。肝臓がんは再発していました。いずれ厳しい状況になることは目に見えていました。
この病院以外、どこに行けというのか。
さいたま記念病院のその後の民事再生、医療法人変更に至る一連の流れの中で、赴任直前、私に院長就任の要請が突然舞い込んできました。私の夢であったレジデントの道がいっとき遠のくのを感じながらも、窮状を察し引き受けました。
赴任して4日後、Tさんがお腹の不調を訴えて来ました。入院させ私が担当医となりました。その後の検査で悪性度の極めて高い腫瘍にTさんのお腹は蝕まれていました。再発していた肝臓がんとは異なるタイプのがんでした。組織診断をつけ、化学療法を施行し、それでもがんは増殖を続けました。
「もういいよ。」
抗がん剤の治療を拒否し、神奈川の自宅に戻って行きました。
一度、お見舞いに伺いました。
「あれが丹沢、あれが箱根、こちらが海。」
立ち上がって窓からの景色を精一杯説明してくれました。
大学卒業まもなく白血病で亡くなったお嬢さんの写真が部屋のあちこちに飾ってありました。
私が帰るとき玄関まで見送ってくれました。これが最後となりました。
昨日、彼の訃報が届きました。
さいたま記念病院で一緒に仕事ができたのは、たったの5日間でした。闘病の中で一緒に過ごせたのは、たったの2カ月間でした。冗談を飛ばしながら議論した10年前からのことを思うと、「たったの」ということはありません。一緒に良い時間を過ごせたと感謝します。
今の充実したレジデント生活もTさんからの授かりものです。
Tさん、ありがとう。