へき地医療とは「無医地区ないし無医地区に準じる地区における医療」のことです。無医地区とは、厚労省の定義によれば、「医療機関のない地域で、当該地区の中心的な場所を起点として、おおむね半径4kmの区域内に50人以上が居住している地区であって、かつ容易に医療機関を利用することができない地区」とされます。仮に地区の人口が1人減って49人になると無医地区とは言いません。
無医地区の数を東日本で見ると表のようになります。無医地区が経年的に減っているのは新たな医療機関が設立されて利便が良くなったからではなく、単に人口が減ったからというのが大部分です。
前任地の茨城県は無医地区の多い県です。埼玉県に無医地区はありません。
私が県立病院の院長を務めていたとき、役職の関係で自動的に県の「へき地医療対策協議会」の会長を兼務しました。
私自身へき地医療の経験はありません。経験のない者が総元締めになってよいのか、根源的なところで悩みました。
へき地医療対策協議会会長に就任したとき、せめて無医地区を全て訪れておこうと思いました。土日と休日を利用しておよそ半年で県内の全ての無医地区を回りました。回るとは言っても、車で出かけ、基幹病院からどのくらいの距離か、どのくらいの時間がかかるか、バス停はあるか、バスは1日何便か、を調べるだけです。
車さえあれば、片側1車線の舗装された道路を5kmや10km走って通院するのは問題がありません。しかし、幹線道路から外れて曲がりくねった細い道を1時間以上運転してようやく到着する地区もありました。雪が降ると状況は一変します。
へき地医療対策協議会で医療関係者や自治体の説明を聞くと、現地の情景が浮かび、問題の把握が進みました。
だからと言って、へき地医療を本当に理解したわけではありません。
院長を辞めた後、「県北のへき地での巡回診療に関わらないか」という誘いをその地区の市立病院から受けました。第2・第4水曜日にワゴン車で看護師・事務員各1名と一緒にへき地を回ってくれないかというのです。喜んで引き受けました。第1・第3水曜日は地元の若手医師が行ってくれるとのことでした。
自治医大(本院)に勤めていたとき、へき地に赴く卒業生にエールを送っていました。しかし自分はへき地医療に関わっていないという「負い目」がありました。月に2回だけでも関わってみることにしました。
欠勤は1回もなく埼玉転居までの2年間47回のノルマを果たしました。
私が行っていたのは、北茨城市の奥でした。朝早く水戸の自宅を出て現地に向かい、麓で巡回診療車と落ち合います。すれ違いの難しい花園渓谷沿いの道を上ること約1時間、小川地区に着きます。公民館で2時間ほど診療を行い、持参の弁当を食べたあと山を下り、途中の水沼診療所(週1日開く診療所)でまた2時間ほど診療にたずさわります。いずれも患者さんはほぼ高齢者で診察のあと薬(車に予め積載)を出して終了です。思わぬ病気を見つけることもあります。
小川地区の公民館の前にヘリポートがありました。救急疾患でドクヘリを呼ぼうと思えばできました。私自身はドクヘリを呼ぶことはありませんでしたが、「明日には基幹病院に行くこと」と指示したことは何度かありました。もしその日の夜に急変すれば私の責任になりますので常に緊張して診療を行っていました。私の判断が明らかに誤っていたということは幸いありませんでしたが、私の判断で治療方針を大きく変えたことはありました。その判断が的中し、本人・ご家族に喜ばれると医師冥利に尽きると思うこともありました。
私のへき地医療は本当のプロから言わせれば真似事だったと思います。診ていた人数も限られます。しかも2週間に1回。それでも思ったのは、診療の要は問診、視診、触診、聴診、「嗅診」だということ。携帯型心電図はありました。採血はできても結果は後日です。内視鏡もX線もありません。その中で診断を下す醍醐味は確かにありました。
地域医療実習として医学生が1〜2名付くことがありました。現地に着くまでの1時間、同乗のワゴン車の中で口頭試問のように質問攻めにするのが私の楽しみでした。
どこの出身か、なぜ医師を目指したのか、何科の医師になろうとしているのか、それはなぜか、この地域に来たことはあるか、山の中に来て思うことは何か。
質問ばかりではなく、私のことも話しました。なぜ外科医を目指したか、この地域にはどのような思い出があるか。
杉の伐採のあと苗木が植わっているところに出ると訳知り顔で説明します。「伐採された木は今の住民の祖父母が植えたものだ。木を植えることで治水ができる。伐採のあと苗木を植え、50年後に伐採する。その間、木を守り育てる。高齢化で人手が少なくなってもこれを継続しなければならない」。私自身が地元の人から教わったことを学生たちに伝えました。
都会にも「医療の谷間」はたくさんあります。真似事だったにせよ無医地区の経験が役立っています。