前回は、患者さんの診療、とくに回復期の診療では「引き算」よりも「足し算」の考え方がよいのではないかと述べました。
この考え方は、医療だけに当てはまるものではありません。一般の人が社会生活を営む上でも大切だと私は思っています。
このことを気づかせてくれたのは、「イヤな奴とつきあう法」(国谷誠朗、朝日新聞社、1989)という本です。
私が西ドイツ留学をしているとき(1986−1987年)母が毎月、日本の週刊誌をまとめて送ってくれました。週刊誌は2誌、週刊新潮と週刊朝日でした。海外で暮らすと、大げさに言えば地球規模で物事を考えるようになります。井の中のような日本の話を週刊誌ごときで読んでも役に立たないと当初あまり気が乗らずにページをめくっていました。ところが、週刊朝日に「イヤな奴とつきあう法」の連載が始まったとき、それまでの「狭い日本」観が一変しました。
連載が始まってまもなく日本への帰国となりました。毎週の発刊が待ち遠しくなりました。1年近くの連載が終わってまもなく単行本が出版されました。すぐ手に入れ、あらためてさまざまな事例を読み直しました。
「イヤな奴とつきあう法」のメインタイトルには「サラリーマン」が付いています。「サラリーマン イヤな奴とつきあう法」が正式タイトルです。
30年以上前のサラリーマンは、現在と異なり、1つの会社に勤めると、ほとんどの人は転職することなく定年までその会社に勤め続けます。イヤな上司にあたると、その上司が定年で辞めるまでの数十年をイヤな思いで仕えなければなりません。気が滅入るばかりです。今なら、さっさとその会社を蹴っ飛ばして転職先を探せばよいはずです。でも当時はそうはいかない世の中でした。数十年も続くイヤな思いをどうすればよいのか。その葛藤に対して心理学者の著者が実に素晴らしいアドバイスをしてくれるのです。
私は医師ですのでサラリーマンのように数十年も同じ上司に仕えることは当時でも考えられませんでした。しかし、1年や2年という長さであっても、時には数ヶ月という短期であっても、イヤな上司に仕えるのは苦痛だと思うことは度々ありました。ましてや、外科です。例えば、指導医が大量出血を起こし、修羅場となった手術では、こんな上司の言うことなど誰が聞くものか、と思ったものでした。一度でもこうした経験をすると、上司の欠点ばかりが目に付くようになります。
そうした経験を振り返りながら「サラリーマン イヤな奴とつきあう法」を読むと、まさに目から鱗が落ちる思いがしました。
今でもこの本はよく売れているようです。文庫本も手に入ります。別の著者による多くのバージョンもあるようですが、嚆矢は国谷氏です。ぜひ読んでみてください。人を見る目がガラリと変わります。
カウンセリングの実例が次々出てきます。共通するのは、著者の言葉を借りると「プラスのストローク」(「褒めたり、感謝したり、ねぎらったり、歓迎の気持ちを示したり、共感や同情を示したりすること」)、「私もOK、あなたもOK」です。
私なりに解釈すれば、イヤな奴をさりげなく褒めることです。
人間関係に悩んで私に相談してくる人が今までたくさんおられました。そのときの私のアドバイスはこの本からの知識と自体験から「そのイヤな奴を褒めてみてください」です。「あんなイヤな奴なんか褒めることはできない!」とほぼ全員が叫びます。
部屋に入ってくるなり泣き出す人が何人もいました。悩みを聞き、相手を非難する言葉を聞いたあと、辛さを理解してあげながら、その辛さを和らげる1つの方法として「相手を試しに褒めてごらん」と提案してみます。「そんなことはできません」と反応したら次のように説明していきます。
「気持ちはわかります。でも、どんなにイヤな奴だと思っても、その人には親がいたり、配偶者がいたり、子供だっているでしょう。あなたによってイヤな奴と呼ばれるのをその家族が聞いたとき、家族は悲しいですよね。その家族にとってその人はきっと何かいいことがあるはずです。だからこそ家族はその人を頼っているのだと思います。あなたがイヤな奴と思っても、家族の立場に立って考えるとその人には何かいいことが必ずあるはずです。何もないというのは考えられません。マイナス面はこの際、目をつぶりましょう。人間は誰でも完璧ではありません。その人に面と向かって褒めなさいと言っているのではありません。その人がいないところで、別の人に『あの人は意外とこういういいところもあるんだね』と呟いてみてください。大声を出す必要はありません。さりげなく呟くだけです。すると、そのイヤな奴は、あなたがそんなことを言っていたということをどこかで耳にするはずです。すると、不思議なことが起きます。イヤな奴が好意的な態度を示してきます。即効性はなくても何度か(せいぜい数度)繰り返すとほぼ確実にイヤな奴の耳に届きます。疑っていますね。でもこれってダメモトでしょ。涙が出るほど悩むのであれば試しにしてごらん。私の経験ではほぼ100%効果がありますよ。私の言うことが信じられないのであれば、「イヤな奴とつきあう法」という本があるから、読んでみるといいですよ。文庫本で売っているので今度あなたにあげましょう。読んでごらん。そして、騙されたと思ってイヤな奴を褒めてごらん」。
私は数十人にこの話をしてきました。結果を聞いたのは10人足らずですが、全員「よかった」と言ってくれました。うまくいかなかった人は報告してくれなかったのかもしれません。「よかった」と言ってくれた人もひょっとして胡麻を擦っただけなのかもしれません。しかし、少なくとも私自身の経験では100%効果があります。
この話のオチは、「私に褒められたら要注意」。
もちろん、本気で褒めることはいくらでもあります。「どちらかは私のみぞ知る」、そう嘯いていた時期がありました。ところが、褒める癖、良い点を見出す癖が付くと、イヤな奴というのは実はほとんどいない、たいていは愛すべき人間だ、ということになってしまいました。これが最後のオチです。