患者から離れ、古今東西を旅するのは書評の世界です(2019/11/25ブログ参照)。
最近の書評で気になる本を見つけました。中島義道著「晩年のカント」(講談社、2021)。早速、キンドル版で読んでみました。
カントを昔から知っていたわけではありません。せいぜい「18世紀後半のプロイセンの偉大な哲学者」というぼんやりした知識ぐらいでした。転機になったのは、「外科医のプロフェッショナリズム」について日本外科学会から原稿を依頼されたときです(日本外科学会雑誌 118: 313-316, 2017)。そのときカント哲学を少しかじりました。
なぜカントだったか。
日本では、2012年ごろから専門医制度改革の中で「医師のプロフェッショナル・オートノミー」という言葉が盛んに使われるようになりました。「プロフェッショナル・オートノミー」とは「個々の医師が診療に際して、自らの職業的判断のもとに自由に裁量権を行使できるという保証」と解釈されるのが一般的でした。ところが、英米ではオートノミーはペーシャント・オートノミー(患者の自己決定権)を意味します(インフォームド・コンセントとほぼ同意)。驚くことに、プロフェッショナル・オートノミーは英語なのに、英米ではほとんど使われません。なぜこんな相違が生じてしまったのか。それがそもそもの出発点でした。
まず、オートノミーは誰が言い出したのか。
古代ギリシャに遡ることができます。オート(自己)+ノモス(法律)に由来し、都市国家の独立自治を意味したとされます。しかし近代のオートノミーに大きな影響を与えたのはカントだということが分かってきました。
ではカントは何と言ったのか。
カントを読まないことには答は得られません。とは言え、翻訳であってもカント全集を今さら読むことなど到底できません。安直ではありましたが、石川文康著「カント入門」(筑摩書房、1995)で勉強しました。石川氏によれば、カントは「実践理性批判」(1788)において、意志の自己立法すなわちオートノミー(自律)こそ道徳原則の根本だと論じ、動機に依存するヘテロトミー(他律)を排除しました。すなわち、一切の動機を排し、純粋な義務遂行を求めたというのです。自律の原理は自由の理念に基づくとし、健全な思考原則の1つとして「自分自身を他者の立場に置いて考えること」を挙げたとも言います。
ここで少し見えてきました。
「厳しい自己規律」と「自由な意志に基づく他者尊重」。カントのオートノミー(自律)には両方の意味合いがあったようです。後者の考え方「自由意志に基づく他者尊重」が現在、英米で使われるオートノミー=「患者の自己決定権」につながったのは理解できるところです。しかし日本のプロフェッショナル・オートノミー、すなわち医師の裁量権の意味合いが強くなった経緯は、前者の「厳しい自己規律」とは趣を異にします。
それには、世界医師会の動きが関係していました。
そのキーを握るのが日本医師会長(1957-1982)として25年間絶大の権勢をふるった武見太郎氏です。決して悪い意味で言っているのではありません。あらためて武見氏を見直すためです。2019/5/8のブログで述べましたが、武見氏は1980年ごろ、医業のプロフェッション性を論じ、国家や他人からの干渉・強制を受けないという意味で「プロフェッショナル・フリーダム」を唱えました。注目すべきは、「〜からの自由」(消極的自由)であれば単なるエゴイズムの烙印を押されてしまう、むしろ「〜への自由」(積極的自由)という自己の理性による人類の進歩と社会の安定を図っていく、それがプロフェッショナル・フリーダムだ、というのが武見氏の考え方でした。これが世界医師会の綱領に反映され、1987年の世界医師会でマドリッド宣言「プロフェッショナル・オートノミーと自己規制に関する宣言」として採択されました。「自己規律」が前面に出た宣言でした。
その後、世界の医療情勢は大きく変化しました。引き金は医療費高騰と医療訴訟です。各国政府の医療費抑制策と受療者の過大な要求など、医療を取り巻く環境が厳しくなりました。医師の権利保守の流れが出てきました。そこでマドリッド宣言改訂の動きが現れ、2008年ソウル宣言「プロフェッショナル・オートノミーと臨床上の独立に関する宣言」と2009年新マドリッド宣言「プロフェッショナルな規範に関する宣言」に二分割されました。前者はプロフェッショナル・オートノミーの定義を示し、オートノミーの語こそ残るものの「臨床上の独立」が併記され「消極的自由」に戻ってしまいました。後者は「積極的自由」を引き継ぐものの題名からプロフェッショナル・オートノミーが消え、「自己規律」に言い換えられました。
こうした考察を踏まえると、現在の日本で使われる「医師の裁量権」に絡むプロフェッショナル・オートノミーの解釈は、カントの本義によれば「裁量権という権利を主張するヘテロトミー(他律)だ」と言わざるを得ません。カントを踏襲するのであれば、武見氏の「プロフェッショナル・フリーダム」の原点(積極的自由)に戻るか、誤解の多いオートノミーを捨て、英米で言われる「プロフェッショナリズム」、日本語では「自己規律」を用いるのがよいように思われます。
以上が拙稿の主旨でした。
前置きが長くなりました。私が「晩年のカント」を読むに至った背景を理解していただくためです。御容赦ください。
次回、「晩年のカント」の読後感をお伝えします。