先月(2022/3)の日本経済新聞朝刊「私の履歴書」シリーズは元ジャストシステム・現MetaMoJiの浮川和宣氏でした。私よりも1歳年下です。興味を持ったのは、日本語入力ソフト「一太郎」の開発の歴史だけではありません。なぜ徳島という地方で花開いたのか。なぜマイクロソフトのワードに敗れたのか。その後になぜまた新たな分野に挑み続けるのか。浮川氏の物語は私の半生にも重なります。共通するのはワードプロセッサー(ワープロ)の歴史です。
以下、思い出が長く続きます。何を今さらと思うかたは読み飛ばしてください。
医学論文を書くようになったのは、群馬での外科医駆け出しの修行を終えた1978年(30歳)からでした。論文は手書きでした。書き上げた原稿を上司に渡し、添削を受けました。以前も書きましたが(2020/10/14)、上司の添削を受けると、元の私の文章はほぼなくなっていました。直される箇所が徐々に少なくなり、およそ半分添削され半分残るようになりました。そうなると、原稿を一から書き直すのが面倒です。そこで次のような工夫をしました。
直されたところは新しく原稿用紙に書く。削除・訂正を免れた箇所はハサミで切り取ってノリで貼る。直された「てにをは」は修正液で消し上書きする。時間の節約になると無邪気に喜んでいました。依頼原稿はそのまま提出、投稿原稿は妻が清書しました。
1980年(32歳)、病理の勉強と自分の研究のため東京都老人総合研究所(現 東京都健康長寿医療センター研究所)臨床病理学部に出向しました。病理解剖にもたずさわりました。病理解剖報告書は英語で書くことになっていました。タイプライターで直に打つ場合もありましたが、ワードプロセッサーというコンピュータを使った専用の機械(IBM製)も使えました。ディスプレイ上で削除・追加・貼り付けが自由にでき、ハサミによるカット、ノリによるペースト、修正液でのデリートをする必要がなくなっていました。文書の保存は、一辺20cmの大きな正方形のフロッピー・ディスクの中でした。
当時も日本語のワープロはありました。しかし数十万円と高額でした。同じ臨床病理学部にある神経病理部の朝長正徳部長(のち東京大学教授)の部屋には、発売まもない東芝製の大きな重い日本語ワープロが置かれていました。朝長先生は老年神経病理学の第一人者。アルツハイマー病の老人斑やパーキンソン病のレビー小体の研究で有名でした。多くの研究資金を獲得し、高額な日本語ワープロの購入は容易だったのかもしれません。
1983年(35歳)、大学に戻ると外科の医局にはパソコンで動く日本語ワープロとプリンターが置いてありました。個人専用が欲しくなり、パソコン一式を購入しました。記憶媒体のフロッピーディスクは一辺13cmと小さくなっていました。
1986年(38歳)、西ドイツに留学することになり、パソコンとプリンターを持っていくことにしました。パソコン本体はNECのPC9801、英語ソフトはワードスター、日本語ソフトは松85(後述)、英文タイプライターはブラザーの電動式、日本語プリンターはNECのドットプリンターでした。ブラザーの電動タイプライターはPC9801と繋ぐことができ、デイジーホイールを英語用からドイツ語用に交換するとドイツ語特有のウムラウト(¨)やエスツェット(ß)を打つことができました(図1)。
ドイツは東西冷戦で2つに分かれ、西ドイツでもコンピューターの輸出入には厳しい制限がかかっていました。前もって日本からコンピューター一式を航空便で送っておきましたが、西ドイツの税関にしばらく留め置かれ1ヵ月後ようやく使えるようになりました。
西ドイツの一般家庭にパソコンもワープロもありませんでした。タイプライターが自動かつ高速でバチバチと音を立ててドイツ語の文章を打ち出す様子に、鼻高な下宿の大家メーニッヒ夫人も言葉を失っていました。
4ヶ月を過ごしたドイツ語の語学学校では毎日のように宿題が出ました。宿題の多くは、長編小説の一部や短編小説の1冊を1ページの文章にまとめるものでした。ほとんどの生徒が手書きで提出していましたが、私はワープロで仕上げ、電動タイプライターで打ち出しました。そのおかげもあってクラスは中級IIから上級に上がることができました。
子どもたちは当時小学生でした。パソコン操作を教えるとすぐに習得し、ワープロで日記を書くようになりました。それをドットプリンターで印刷し、日本の私の両親のもとに航空便で定期的に送っていました。孫からのドイツ日記を私の母親は大切にしまっていました。今も残っているのは母親のお陰です(図2)。
私が使っていた日本語ワープロソフトは松85でした(管理工学研究所、「松」シリーズの1985年版)。帰国してからも使い続けました。そのうち日本語入力ソフトとしてジャストシステムの「一太郎」の良さが知られるようになりました。
それに乗り換えようと考えていたとき、新しいワープロと遭遇したのです。デスクトップ・パブリッシング(DTP)と呼ばれる編集ソフトでした。 具体的にはアルダス(のちアドビに売却)のページメーカーです。これは文書だけでなく画像や写真を自在に入れることができるソフトです。ただし、これを動かせるのはマッキントッシュ(=マック)(アップル)のコンピュータだけでした。
1993年(45歳)、ついにマックを購入しました。
記憶媒体は一辺9cmとさらに小型化していました。DTPは前述のページメーカー、画像編集ソフトはフォトショップ(アドビ)、スキャナーはドイツ・アグファ社製を購入しました。カラープリンターは当時もインクジェット式が発売されていましたが、帯状のスジがつくのが欠点でした。そこでカラー写真並みの画質が得られる日本製の昇華型プリンター(シャープ)を購入しました。総額240万円かかり、妻が泣いたことは以前紹介しました(2019/12/12)。
マックに使われていた日本語入力プログラムは「ことえり」でした。これは「松」や「一太郎」に比べると出来はイマイチでした。日本語入力にイライラしましたが、フォトショップの画像処理、ページメーカーの文書作成の良さは捨てがたく、マックを手放すことはできませんでした。手術記録をページメーカーで作成し、昇華型プリンターで印刷するようになりました(図3)。
しかしマックは「金食い虫」でした。ハードもソフトもアップグレードに相当の費用がかかりました。
1995年(47歳)、マイクロソフトのOSウィンドウズ 95が発売され、世の中を席巻するようになりました。ウインドウズでしか使えない便利なソフトが増えました。ウィンドウズの文書ソフト「ワード」は日本語入力に優れ、DTPも可能でした。マックを使い続ける意義が徐々に薄れるのを感じました。
悩んでいると、ウィンドウズの様々なアプリがマックでも使えるようになりました。「ことえり」も改善されました。ウィンドウズマシンでもマック専用アプリだったフォトショップが使えるようになりました。マックとウィンドウズの互換性がよくなったのです。フォトショップについて言えば、ウィンドウズ版はマック版よりもバージョンが遅れるのが欠点でした。また、ウィンドウズ特有の「窓枠」がDTPの際には邪魔に感じました。その後、ウィンドウズのバージョン遅れや「窓枠」の問題は解消したと認識しています。
結局、個人用のコンピュータはデスクトップ型からノート型に替えてマックを使い続け、今に至っています。要は慣れたのを使い続けたということです。今の画像編集はマック版フォトショップ、ワープロはマック版ワードです。自宅にはウィンドウズマシンのデスクトップがあり、主に妻のインターネットとワード文書作成、私の動画編集に使っています。
スキャナーもプリンターも往時の1/20の低価格となりました。インクジェット式プリンターは帯状の縞がつかず、昇華型と同じ高い画質になりました。
隔世の感があります。
浮川和宣氏は、ジャストシステムを辞めたあと、MetaMoJiを立ち上げました。現在の主力製品はiPad(アップル)への応用とのことです。
開発者と初級ユーザーという立場の大きな違いはありますが、ワープロを巡る流れは同世代だったように思います。
長い間、お互いご苦労様でした。新たな挑戦を続ける浮川氏の姿に自分も負けられないように感じます。
図1.ブラザー電動タイプライターで作成したドイツ語手紙(1988年)。留学中の文書は破棄されていたが、帰国後に作成した手紙の下書きが残っていた。ドイツ留学中の日本人科学者の病気を診てくれる医師の紹介をドイツの教授にお願いした手紙の最後部分。
図2.パソコン日記。私は1986年6月から9月まで語学研修を受けた。家族とは7月末に合流。卓上にPC9801一式、下にドットプリンターが見える。奥の本棚の最上部にフロッピーディスクを入れる箱が並んでいる。
図3.1993年の手術記録(部分)。急性膵炎の再手術を記載。イラストの描画法は2019/12/12と12/13のブログ参照。