一・十・百・千・万の法則

「一・十・百・千・万の法則」。私が勝手に作った法則です。
医療の世界、とくに外科の世界では、経験数がものをいいます。脳神経外科医は脳神経手術、心臓外科医は心臓手術、呼吸器外科医は肺手術、小児外科医は小児手術、食道外科医は食道手術、胃外科医は胃手術、肝臓外科医は肝臓手術、膵臓外科医は膵臓手術、大腸外科医は大腸手術、婦人科医は婦人科手術、泌尿器科医は泌尿器手術、整形外科医は整形外科手術、耳鼻咽頭科医は頭頸部手術、眼科医は眼科手術、形成外科医は形成外科手術、それぞれの数が外科医としての腕を計るのに重視されます。鏡視下手術の時代になれば、内視鏡手術の経験数が重要になりました。歯科診療においても歯科医は歯科処置・口腔外科手術の数が重要です。
経験がなければステージ0、一桁であればステージ1、10例を越えればステージ2、100例以上あればステージ3、1000例に達すればステージ4、1万を超えればステージ5の最高位です。
消化器外科の中で難度の高いと言われる膵頭十二指腸切除の私の経験数は352例です。おそらくこれ以上増えることはもうありません。ステージ3の前半で命は尽きます。消化器外科医の中には1000例を少し超える膵頭十二指腸切除術の経験者が稀におられます。それでもやっとステージ4に達したところで外科医生命は終わりを告げます。だから、今なお完全な膵頭十二指腸切除を行える外科医はいない、ということでもあります。
腹腔鏡や胸腔鏡の私の手術は2174例で打ち止めでした。ステージ4を超えてまもなくの終焉となりました。全身麻酔手術そのものも3997例が生涯の数ですから、ステージ4の半ばにも達しなかったことになります。自分ではイヤというほど手術をやったと思っても所詮それだけのことのようです。

経験は手術に限りません。例えば採血。看護師の中には1万を超える採血経験者はたいへん多いと思います。採血という項目に限ればステージ5はざらにいるということです。しかし、新生児の採血となると、ステージ5はどれほどいるでしょうか。ショック状態での採血をどれほど経験しているか、となると、これもまた自信を持ってステージ5だと言える医療者は少ないと思います。緩和ケアでも看取りでも経験数がものを言います。もちろん、外科手術とは異なります。量より質という面もあると思います。それでも経験は緩和ケアや看取りの現場でも重要です。

稀な病気、例えば専門の膵臓外科で言えば、インスリノーマという低血糖を引き起こす稀な膵腫瘍があります。大学病院でも年間1例あるかないかです。個人としての経験数は20例ほどです。「一・十・百・千・万の法則」によればステージ2に入ったところで生涯経験は終わります。では、経験不足のために手術成績が悪いかというと決してそうではありません。インスリノーマ自体が良性腫瘍であることが一番大きな理由ですが、もう1つの大きな理由は、古今東西の多くの症例報告のおかげで、たとえ個人の経験が少なくてもバーチャル経験数を10倍、100倍に増やせることです。インスリノーマの経験が20例であってもバーチャル経験数を100倍の2000例にすることで「一・十・百・千・万の法則」を当てはめることは可能です。

こう考えてくると、絶対数で「一・十・百・千・万の法則」を直接当てはめなくても、1例1例を「量より質」の視点で丁寧に扱い、一から十を知り、さらに百・千を知れば、ステージ5の最高位にならなくてもステージ4までは行けるように思えます。
これは医療の世界に限りません。一般社会でも同じだろうと思います。

「結婚はどうなのですか?」
あるとき、多くの若手外科医と飲んでいて、手術経験数の話題から一般社会にも通じる「一・十・百・千・万の法則」を紹介したとき、鋭い質問がありました。
「なるほど、みんなステージ0か1か。だからうまくいかないのかも・・・」
私の声は急に小さくなりました。
この若者に何とか気の利いた一言を、と唸りながら絞り出したのがこれです。
「人生は全員1回だけだ。ステージ1の最初で終わってしまう。うまく行くわけがないだろう。だからこそ、一生懸命生きるしかないのだ。」
分かったような、よく分からない酔っ払いの一言で全員が「カンパ〜イ」となりました。