ある裁判官が今朝の日経メディカル(online)に興味深い記事を書いていました。
「健診での肺癌見落としは裁判でどう判断されるか?」
(https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/clinic/saibankan/201907/561626.html?n_cid=nbpnmo_mled)
私はこの4月以降、読影を含めた健診(検診)に関わるようになりました。職員健診、職場健診、がん検診、人間ドックなどです。
以前も書きましたが(5月21日)、私は日本人間ドック学会健診情報管理指導士の資格を持っており、特定健診や人間ドックでの生活習慣指導にはある程度自信があります。しかし、胸部エックス線写真の読影を行うことは想定してきませんでした。それでも読影まで引き受けたのには次の理由があります。
病理に関わっていた頃、胸部エックス線やCTと病理解剖の肺所見とをマクロとミクロで比較することを多数行なっていました。このことは6月25日のブログでも述べました。また、国立療養所の消化器外科に勤めていたとき、結核患者の腹部手術を多数請け負っていた関係で、結核の胸部エックス線も多く見てきました(6月26日のブログ参照)。
さらに、自分自身が肺がんと言われたときの胸部エックス線写真とCT像は今なお鮮明に覚えています。6月27日のブログにも書きましたが、肺異常陰影は気管支喘息を背景にした炎症性肉芽腫でした。
茨城県に移動したあと、定期的に胸部エックス線を撮っていくと、ときどき淡い小さな結節影ないし浸潤影が現れます。卓越した私の主治医である呼吸器内科専門医はいつも目ざとく見つけ、CTのオーダーを出します。自分でもあらためて胸部エックス線の淡い小さな影を見て、CT像を見直すことを繰り返しました。この影は肺野の思わぬところに出て、やがて消えていきました。その度に喘息治療のメニューを細かく変更していきました。これは今でも続いています。ほかにも長年の外科医としての経験の中でそれなりにたくさんの胸部エックス線を読んできました
もちろん、肺がんや心不全、心肥大、大動脈疾患、肺門部リンパ節腫大などの読影経験は専門の呼吸器・循環器・放射線診断の先生に比べれば少ないと言えます。
そこで、健診(検診)の読影を引き受けるに当たり、あらためて最近の教科書を読むことにしました。次の3冊で勉強しました。
レジデントのためのやさしイイ胸部画像教室[ベストティーチャーに教わる胸部X線の読み方考え方] 改訂第2版(長尾大志著)、胸部X線写真の読み方(大場覚著)、胸部X線カゲヨミ〜「異常陰影なし」と言い切るために(中島幹男著)。あらためて胸部エックス線の奥深さを感じ、見逃しのないように身を引き締めて読影を開始しました。
最初の話に戻ります。
医療裁判を多く扱ってきた裁判官の言葉ですので、重みがあります。いくつかの言葉を引用させていただきます。
1)集団健診に関する最高裁判例としては、昭和57年4月1日判決(民集36巻4号519ページ)があります。(中略)「多数者に対して集団的に行われるX線検診における若干の過誤をもって直ちに対象者に対する担当医師の不法行為の成立を認めるべきかどうかには問題があるが、この点は暫く措(お)く」との判示がカッコ書きでなされており、集団健診では、医師に求める医療水準が通常の診察よりも下がるかのような判断が示されています。この判例以外には、集団健診について判示した最高裁判例はありません。
2)名古屋地裁平成21年1月30日判決(判例タイムズ1304号262ページ)の事案は、2時間弱で700枚余りの写真を読影していたことが認定されました。通常、1時間で200枚程度が限界とされているようですので、相当多い枚数であったことは確かであり、集団健診の特殊性を考慮して医師の過失を否定しています。
3)医師の話を聞きますと、もともと集団健診は一定のスクリーニング機能しかなく、安い費用で実施しているのだから、ある程度見落としがあってもやむを得ず、低コストのまま高い医療水準を求めるのは無理な注文である、ということを述べる人が多いように思います。他方、患者の立場からしますと、異常がないかを知るために定期健康診断を受けているのに、「個別の検査であれば慎重に読影するので異常を発見できたが、あなたが受けたのは集団健診だから、ある程度異常を発見できなくとも仕方がない」となれば、何のために定期健康診断を受けているのか、という反論も出てきます。
4)(最後の結論の言葉)裁判においては、集団健診であるため受診者に関する情報が全くなく、かつ、画像を比較的短時間で読影せざるを得ないという状況を前提として、見落としが過失と言えるかどうかを判断するのが相当でしょう。
この最後の結論の言葉は、健診(検診)の読影に当たる者として少し救われる思いがします。それでも強いプレッシャーを感じながら、平日はほぼ毎日読影に当たっています。