茨城の恩人S先生から贈られた絵のことを4月18日に書きました。
作者の名は敢えて出しませんでした。そもそも不勉強で存じ上げないお名前でした。戦前・戦後に活躍した茨城県出身の日本画家だとウィキペディアにありました。それ以上、詮索しませんでした。名前は関係ない、絵がよければよい。割り切りました。
ところが、絵を毎日眺めているうち、この画家をもっと知りたいという思いが抑えられなくなりました。
5月末、水戸界隈の古本屋で画集や資料を買い求めました。その中に、茨城県天心記念五浦美術館で開かれた回顧展の図録(2010年)がありました。
表紙を開くと、主催者の挨拶の次に、長男のかたが寄稿されていました。長男のお名前は私が医学生のころ感銘を受けた小児科の教授と同じでした。同姓同名だなと一瞬だけ思い、すぐに本文を読み始めました。
子どものころに見た父親の様子を淡々と綴っています。
「当時の父というと、黙々と絵を書いている姿しか記憶にありません。」
そのあと、尾瀬沼のスケッチ旅行の話、宮沢賢治の童話を絵にした話、戦後に霞ヶ浦岸辺で制作活動を続けた話など、心に染み入るエピソードが続きます。そして両開きのページが終わる直前、「当時、私は医学部学生で」が飛び込んできました。
まさか。
急いでページをくくると、「私は医学(小児科)の道を進み」とありました。
まちがいありません。
あの小林登(のぼる)先生です。そのお父様が日本画家・小林巣居人(そうきょじん)だったのです。
文章の終盤近く次の一文がありました。
「小児科医として父の子ども時代の話を聞くと、自然の中で飛びまわり、昆虫や蛙に夢中になり、小学校の成績はよくない変わった子どもだったようです。今の様な時代なら、発達障害というレッテルを貼られたかもしれません。しかし、それだからこそ、土や水、花や虫、魚や蛙といった自然を追う絵描きになれたと思うのです。(中略)子どもの未来に必要なのは、親、あるいは周りの大人の優しいまなざしであると小児科医として思っています。」
45年ぶりの小林語録です。あの優しいまなざしで語りかけてくださいました。