武蔵野の面影を残す木立に囲まれた結核療養所に1988年から1991年まで勤めました。私が勤めた中で唯一、時間がゆったりと流れていた病院でした。
最盛期、病床数1000以上あったこの療養所では、1950-1960年代、結核の外科治療が年間1000件以上あったと聞いています。ストレプトマイシンなどの結核治療薬が入手できたとはいえ、肺結核に対する肺切除も盛んに行われていました。
結核は癒着が激しいので「肋骨1本100cc、肺葉切除1000cc」と出血が付きものでした。当然、輸血をしました。

そのころ日本の輸血は売血制度で、お金目当ての血液提供もありました。その中に今で言うC型肝炎ウィルスが含まれた血液が出回りました。かなりの確率で輸血後肝炎が発症しました。
多くの患者は結核が治っても、20年後、30年後に輸血後肝炎→慢性肝炎→肝硬変→肝細胞癌という経過を辿りました。予防と治療のお陰で結核は減少し、結核療養所に空床が目立つようになったところに医原性の肝疾患が増加したのです。空床を埋めるべくできた病棟が肝臓内科でした。
そして必要になったのが肝臓の切れる消化器外科医でした。そこで私が3代目の外科医長として招かれました。
もっとも、招かれたというのは事実と少し異なります。
当時、私は国立療養所東京病院から車で5分のところに住んでいて、都心の大学に通勤していました。ちょうど40歳でした。四十にして惑わず。自分の人生と家族のことを考えました。職住近接が一番だと思いました。自ら進んでその病院の勤務を願い出ました。

しかし、肝臓癌で手術の対象になるのは限られています。ましてや患者の多くは低肺機能です。肝切は滅多にありません。
活動性結核の合併が分かって都内各所から送られてくる胃がんや大腸がんの患者さんを加えても、消化器外科の年間手術数は局所麻酔込みで100例ほどでした。救急もほとんどありません。
だから時間がゆっくり流れていました。

それでも低肺機能患者の開腹手術については随分勉強し、工夫もしました。
腹腔鏡手術は低侵襲で低肺機能患者には良いだろうとの思いで始めました。肝疾患の腹腔鏡検査に慣れている肝臓内科の先生に教わって第1例を実施しました。1990年10月のことです。日本では早い時期になります。
そのことで手術数は少し増えましたが、結核療養所で一般の人が手術を受けたいと思うわけはありません。手術が少ない分、別の領域を勉強しました。それが死の臨床と緩和ケアでした。これものちに大いに役立ちました。

一方、病院全体を見たとき、入院を要する結核患者はどんどん減って、空床化が重要課題となっていました。
空床対策は肝臓内科や消化器外科の設置以前から取り組まれていました。それがリハビリテーション科と神経内科の付設です。
呼吸器専門病院が呼吸器リハを始め、その繋がりで脳卒中リハを始め、さらに神経内科の設置に繋がりました。そして、リハビリ療法士の育成の必要性に迫られ、この病院の附属施設として養成所が作られました。それが、私の赴任25年前の1963年に設立された国立療養所東京病院附属リハビリテーション学院です。日本で最初の理学療法士・作業療法士の養成学校です。
ここの卒業生はその後の日本のリハビリテーション医学に多大な貢献をしました。

当時、私はリハビリの現場にはほとんど足を踏み入れませんでした。がんの終末期医療のほうに興味があったからです。
それでも、女性のリハビリ医であったSN先生との何気ない会話の中で、自分の娘の職業体験をリハビリでお願いしたことがあります。それが娘とリハビリとの最初の出会いになったように思います。

私が国立療養所東京病院を離れて28年。回りまわってリハビリテーションの盛んな当院にたどり着いたというのも何かの縁だと思います。私自身がようやく目を向ける機会をいただいたのだと思います。

(国立療養所東京病院外科病棟から見た駐車場。1991年3月27日、離任4日前、冷たい雨が降っていました。その後、病院は国立病院機構東京病院となり、現代的な高層階の病院に変わりました。)