以前、明治の女(義祖母)、明治の男(父)のことを書きました(2020/3/23・3/26)。
大正の女は母です。
母は1916(大正5)年9月に兵庫県加古郡八幡村(現 加古川市)に黒田家の長女として生まれました。最終学歴は小学校卒。
1929(昭和4)年4月、12歳で鈴木家の養女となり、1937(昭和12)年10月養父の死去に伴って家督を継ぎ鈴木家の戸主となりました。
1938(昭和13)年4月に9歳上の父との婚姻届が出され、5月に入籍しています。8月に私の姉である長女が生まれました。母21歳のときでした。
京都帝国大学医学部卒業の父と、小学校卒業の母がどこで知り合ったのか、私はほとんど知りません。私自身、余り興味がありませんでした。詮索好きの弟によると、父が勤めていた京都市内の病院に母が看護助手として働いていて出会ったようだとのこと。また、仏壇の引き出しの奥に若い頃の凛々しい父の写真が密かに仕舞われているのを見たことがある、というのです。多分、そういうことだったのだろうと思います。
父は終戦直後、埼玉県飯能町(現 飯能市)で外科医院を開業しました。ほどなく長男を3歳の誕生日直後に疫痢(感染性腸炎)で失う不幸に見舞われながらも、その後、母は二男、三男(私)、四男を生み、長女を含む4人の子供を育てました。家庭と医院の両方を必死に守っていきました。入院患者の食事はお手伝いを使って母が調理していました。注射や手術の手伝いもしていました。注射にしても手術にしても、母のほうが父より度胸もセンスもありました。手先は父よりも器用でした。趣味は多彩、園芸はプロ級でした。ただし自転車に乗れず、泳げず、英語も全く分かりませんでした。どれも習わなかったのが理由でした。
私が物心ついてから両親はよく喧嘩をしていました。父に負けない強い母の姿をいつも見てきました。性格の異なる2人でしたが、似た者夫婦の一面もあり、晩年は仲良く国内や海外の旅行を楽しんでいました。父は英語もドイツ語も文章なら読めるのに会話ができませんでした。母は一切読めないのに数字だけを頼りに大胆に値切り、買い物を楽しんでいました。
母は92歳で亡くなりました。死因はC型肝硬変、肝細胞がんでした。
私を生んだあとの貧血に対し、父が輸血をしました。近所の人からの生血(なまけつ)だったようです。まもなく輸血後肝炎、やがて慢性肝炎、肝硬変、肝細胞がん。
母の肝機能がかなり悪くなってきたころ、父は検査結果を私に見せるたび「すまないことをした」と言っていました。
「昔の医療水準なら、仕方なかったのではないですか」。
私は毎回同じ答を返しました。
母は黙って、医師同士の親子の会話を聞いていました。
100歳の父が大学病院入院中の母を最後に見舞ったとき、「すまなかった、すまなかった」と病室で呟いていました。母はいつものように聞こえぬ振りをしていました。微妙な表情は、怨みにも諦めにも見えました。
母が亡くなったあと、母の着物が出てきました。
「死んだ時に此の着物を」。
何事にも気が利く母でした。