先日、大宮駅近くのレストランでメニューを見ていて、ある料理に目がとまりました。
「奥出雲より ジャンボしいたけのスカモルツァチーズ焼」。
目をとめたのは、ジャンボしいたけでもスカモルツァチーズでもありません。そもそもスカモルツァチーズなどまるっきり知りません。
「奥出雲」だったのです。
「奥出雲か・・・。とっつぁんだ。」

とっつぁんというのは、私が自治医大の外科にいたときの医局長です。
島根の高校を出たあと東京のW大学理工学部数学科に入って卒業し、新宿の予備校で数学の教師をしているとき、一念発起して地元島根の国立大学医学部に入った男でした。医師になると同時になぜか関東の田舎の大学の外科に入局しました。あとから「なぜここだったのか」と聞いても「面白そうだったから」としか言いませんでした。
左利きでありながら、右手も使え、手術の上手な外科医になっていきました。同期の外科医より年齢が上であったこと、下の名前の始まりが「と」であったこと、同じ苗字の別の外科医と区別する必要があったこと、手術が修羅場になっても冷静沈着にやり通す頼もしさがあったこと、何よりも出雲弁丸出しの喋り方とユーモアがあったことから、いつしか「とっつぁん」と同僚も後輩も、やがて私も親しく呼ぶようになりました。
とっつぁんを巡る話題は山ほどあります。
1つだけ紹介します。
私が緊急手術で四苦八苦しているとき、20km北のA医院から麻酔がかかったという電話連絡が手術室の私に入ってきました。手術の手伝いに行くことを失念していたのです。困ったと思っていると、すぐまた別の電話連絡があり、今度は20km南のB医院から同じく麻酔がかかったというのです。ダブルブッキング、しかも、どちらも失念。緊急手術するかどうかで頭が混乱していたのだと思います。
そのとき、私が叫んだのは「とっつぁんを呼べ!」でした。
まもなく、とっつぁんが手術室に現れました。
「とっつぁん、A医院とB医院で麻酔がかかっている。何とかしてくれ。」
なぜこんなことになったのか。いったい何の手術なのか。体が1つなのにそれぞれ反対方向の2つの病院の手術を何とかしろと言われても・・・。
普通だったらそう言います。
しかし、とっつぁんはたった一言「分かりやした」。そう言い残して手術室を出ていきました。
私の緊急手術は夜になって終わり、医局で一息ついていると、とっつぁんが帰ってきました。もう一人は誰に頼んだのか、自分はどっちに行ったのか、手術はどうだったのか。質問する間もなく、またもや一言「やっておきました」。そう言ってすぐ出て行ってしまいました。彼の性格を知る私は、苦笑いをして、「さすが、とっつぁん」と呟いたのです。

私が大学を辞めて茨城に移ったあと、とっつぁんは郷里島根の病院に勤め始めました。出雲市におられる独り暮らしのお母様の健康が心配で、島根の病院に単身赴任したというのです。栃木に残した妻子のもとには月に1-2回帰るだけでした。
とっつぁんの勤めた病院が奥出雲町立病院でした。診療科は外科ではなく、総合内科でした。母親の近くにいながら郷里の地域医療に関わりたいと県に申し出たところ、奥出雲町立病院を紹介されたとのちに聞きました。
ある年の11月22日、つまり「いい夫婦の日」に私は家内と旅行に出かけました。向かったのは島根県の足立美術館です。一度訪れようと思っていたところです。広島で前泊したとき、とっつぁんに会いたくなりました。翌朝、つまり11月23日の祝日、いるかどうか分からなかったのですが、奥出雲町立病院に電話してみました。とっつぁんはいました。「昼に出雲大社の鳥居まで来てくれない?」。急な無遠慮な頼みでしたが、例によって「分かりやした」。出雲市と奥出雲町はすぐ近くだと思ったら40kmも離れていたのです。しかも11月は出雲では「神有月」です。観光客でごった返し、道路は渋滞していました。そんな中、とっつぁんはいつものラフなスタイルで栃木ナンバーのランドクルーザーを運転して現れました。どこかで一緒に昼飯と思いましたが、食堂はどこも満席でした。2人並んで記念写真を家内に撮ってもらい、すぐ別れました。
この2ヵ月後、健康診断でとっつぁんの肺にがんが見つかりました。地元の大学ですぐに手術を受け、しばらく静養ののち奥出雲とは別の県内の病院で医療を再開しました。しかし1年後、脳に再発しました。
抗がん剤、放射線治療などを地元で受けましたが、栃木に帰りたいという思いが高じました。奥様が付き添って島根からタクシーで岡山へ、そこから新幹線で東京へ、さらに新幹線を乗り継いで栃木の小山駅へ、そこから奥様の同僚の車で自治医大に運ばれ、入院しました。
私が茨城から駆けつけたとき、とっつぁんの目は虚ろでした。
それでも抗がん剤、放射線治療を継続し、ご家族の必死の看病と同僚の必死の治療で数週間後に意識が戻りました。次の桜は見られないと言っていたのに、退院して桜を見ることができました。出雲弁が復活したというので、かつての仲間が快気祝いを開きました。私も招かれました。怪気炎が戻っていました。さらにその1年後の桜も見ることができました。その間、ベッドで読んでいたのは、「明解ガロア理論」、「ゲーデルと20世紀の論理学」、「選択公理と数学」などの難解な数学の本だったと、のちに奥様からお聞きしました。読書もやがて叶わなくなり、栃木に戻って1年9月後、とっつぁんは家族と同郷の後輩医師に見守られながら自宅で静かに息をひきとりました。62歳でした。

奥出雲から連想したのはこの思い出でした。
大きな肉厚の奥出雲しいたけとスカモルツァチーズ焼は赤ワインによく合って、美味しくいただきました。
とっつぁん、俺は埼玉で元気にやっているよ。