かかりつけ医のいない患者さんが退院することになりました。当院から離れたところにお住いです。近くの医院に今後の外来診療をお願いすることになりました。
「どこのクリニックにされますか」。
「テラシ医院にお願いします」。
「テラシ」は関東では珍しい苗字です。が、真っ先に「寺師」が浮かびました。
「お寺の寺と教師の師ですか」と聞くと、そうだとのこと。
早速、寺師医院への紹介状を作成しました。
なぜ「寺師」が思い浮かんだのか。
亡き父が懇意にしていた医師が寺師先生だったからです。懇意というよりは敬服していました。なぜなら「寺師閣下」と呼んでいたからです。
父は岐阜県苗木の出身(2019/9/12ブログ参照)。京都帝国大学医学部を卒業して外科医になりました。兵庫県出身の母と結婚後、長兄たちのいる東京に移りました。まもなく内地召集を受け、埼玉県豊岡町(現 入間市)の豊岡陸軍病院に配属となりました。そこで終戦を迎え、近くの飯能で開業しました。次男以下の三兄弟(兄・私・弟)は飯能で生まれました。
私達が小学生の頃、寺師先生は豊岡町の郊外で医院を開業されていました。父は折に触れて寺師先生のもとを訪れていました。先生ではなく閣下と呼ぶのが子供心に不思議でした。
なぜ閣下だったのか。その理由が分からないまま寺師先生も父も亡くなってしまいました。
紹介状を書いたあと、「寺師医院」をネットで検索してみました。
患者を紹介させていただいたさいたま市内の寺師医院のほかに、入間市豊岡にも寺師医院がありました(2つの寺師医院の院長先生は従兄弟同士だとあとで分かりました)。後者のホームページをたどっていくと「陸軍中将 寺師義信(てらし よしのぶ)の生涯」という記事*に行き当たりました。
入間市の寺師医院・寺師良樹院長が祖父 寺師義信氏の伝記を書かれていたのです。この伝記を読み、寺師義信陸軍中将こそ私の父が敬服していた「寺師閣下」だと分かりました。
*http://www.terashi.info/biography/terashi_yoshinobu_biography.pdf
許可をいただき、伝記から概略を引用します。
寺師義信氏は鹿児島県出身。京都帝国大学医学部を1910(明治43)年に卒業(註:父にとっては25年上の大学の大先輩)。1917(大正6)年から飛行機による傷病兵輸送機「衛生飛行機」について研究を始め、1923(大正13)年に埼玉県の所沢飛行場で「衛生飛行機」の試作を開始しました。最初の衛生飛行機「愛国2号」が1932(昭和7)年1月に完成。重症患者用の寝台2個、軽傷者用椅子座席5個、軍医の椅子、温度調節のできる暖房装置、完全防音装置、調剤室、薬品棚、輸血用材、酸素吸入装置等が整備されていました。温湯飲料供給器、消毒用滅菌水タンク、消火器、便所、汚物投下装置等も備えていました。時速180km、航続時間4時間でした。
陸軍は「愛国2号」を満州の関東軍に送り、多数の負傷兵を満州から内地まで空輸しました。この機の秀逸性が現地より伝えられ、さらなる製造要請があったため、中島製作所に依頼して新衛生飛行機、のちに「愛国40号」と名付けられたフォッカー・ユニバーサル機の改良型機が1932(昭和7)7月竣工しました。これは使い勝手が非常に良いので最もよく使われました。同機は小型で、患者は臥位2名、座位2名が乗り、衛生部員1名の同乗が可能でした。結局、満州事変の1932(昭和7)年2月から2年余りの間に7機の患者輸送機が満州に送られました。合わせて1,512名の傷病軍人が護送され、命を取り留めたのです。さらに、1940(昭和15)年までに狭い所での離発着の可能な小型機を主流とした合計33機の「衛生飛行機」が作成されました。戦局の逼迫でそれ以上には増えず、敗戦とともに消滅しました。少なくとも1937 (昭和12)年までに、1回の墜落も不時着もありませんでした。
1936(昭和11)年8月に陸軍軍医学校長、同年12月に陸軍軍医中将、陸軍軍医総監となりました。1938(昭和13)年4月、京都で開かれた第10回日本医学会で「航空医学の将来」という特別講演を行っています。1940(昭和15)年、勲一等旭日大綬章を授与されました。悠々自適の生活をする暇もなく同年、満州佳木斯(チヤムス)医科大学校長の職に抜擢されました。
佳木斯医科大学の最大の特徴は快適な生活を北満の地で送れるよう伝染病や凍瘡の予防治療に邁進したことであり、日本人、韓国人、中国人の学生が平等に扱われたことでした。終戦間際、ソ連軍の満州侵攻のさなか、最後まで医科大学の最後尾に残って命からがら帰還。満州引き揚げの際、中国側より厳重な通達があって、日本人引き揚げ者は勲章、刀剣類、貴金属等一切携行を許されず、寺師学長も勲一等旭日大綬章およびすべての勲章を彼地に残して身一つで帰国しました。戦前は都内の小石川に居を構えていましたが、慣れ親しんだ陸軍飛行場のある所沢近くの、埼玉県豊岡町(現 入間市)で開業医となりました。
この伝記を読むと、現在のドクターカーの比でないドクタープレーンを寺師陸軍中将は着想し実現させました。「日本航空医学の祖」と呼ばれる所以です。時代を超越するドラマを感じました。
私の父との最初の接点は、1938(昭和13)年4月の京都で開かれた第10回日本医学会での特別講演「航空医学の将来」だったかもしれません。私の父母は同年同月に婚姻届を提出しました(2020/12/21ブログ参照)。私の父は京都帝国大学大学院での学位論文「人體ニ於ケル抗腸チフス菌經皮免疫ノ研究」を指導者の鳥潟隆三(とりがた りゅうぞう)外科教授に同年5月3日提出しました。父が寺師義信博士の特別講演を京都で直接あるいは間接に聴いた可能性は高いと思います。
次の接点は、終戦後だと思われます。父が豊岡陸軍病院に内地召集されたとき寺師閣下は満州におられました。2人が戦前の豊岡で会うことはなかったはずです。戦後、父は飯能で開業しました。ほぼ同じ時期、寺師閣下は満州から帰還し豊岡で開業されました。父にとっても大先輩の寺師閣下にとっても異郷の地での開業でした。しかし、大学の同窓であり、ともに戦争の苦難を乗り越え、お互い近くで医院を開業したのです。
父が「寺師閣下」と呼んだ理由がようやく分かりました。