小菅家の人々と伊古田純道

前回、画家の小菅章雄氏のことを書きました。
章雄氏には泰雄氏と久雄氏の2人の弟さんがいらっしゃいます。泰雄氏は作曲家、久雄氏は書家として有名です。お父様の武雄氏も書家として名を成していました。
小菅泰雄氏のホームページ(http://www7.plala.or.jp/so-kosuge/)には、ご自身の作曲の詳細なリストや、作曲法についての専門的な考察があります。音楽に疎い私でも泰雄氏の唱える「黄金比による音階」に興味をそそられました。しかし、あまりに異なる世界に羨望あるのみでした。
泰雄氏は音楽関係以外にも随想や回想録を残しています。とくに医師として私が興味を持ったのは、「誕生〜卒業 第6節 家系」に記された伊古田純道(いこた じゅんどう)の話です。小菅ご兄弟の母方の祖母の祖父が伊古田純道だというのです。

伊古田純道については以前このブログでも触れたことがあります(2021/4/13)。岡部均平とともに日本で最初の帝王切開を行った秩父の蘭方医です。患者は今の飯能市吾野に住んでいました。死んだ胎児を抱え苦しむも帝王切開によって蘇りました。
この日本最初の帝王切開の事実は、60年ほど経った1915(大正4)年、佐原順天堂の佐藤恒二(つねじ)先生によって広く知られることとなりました。
後に、佐藤先生は伊古田純道直筆の記録を活字に再現して発表しました(1935(昭和10)年、中外医事新報)。小菅泰雄氏のホームページにこの佐藤先生の論文のコピーが載っています。国立国会図書館のデジタルライブラリーでも佐藤先生の原著を読むことができます*。
*https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1739738/4

佐藤恒二先生の「発見」に触発され、日本医史学会・日本産科婦人科学会・埼玉県医師会は1987年、妊婦の家(今も続く本橋家)の敷地に「本邦帝王切開術発祥之地記念碑」を建てました。
「嗚呼実ニ西醫ノ賜物ナリ」という伊古田純道の原文が彫られています(下図)。純道の素晴らしいところは、「自今若シ此ノ如キ難産ニ遇テ母子両全ヲ得ンコトヲ欲セバ速ニ此ノ術ヲ施スニ如カズ」、すなわち、「今後、もしこのような難産に際して母体と児の両方を助けようとするならば速やかに帝王切開を実施すべきである」という考察を行なっている点です。

伊古田純道は書もよくしたとされます。佐藤恒二先生は1935年の論文で「晩年書道に志し、貫名(ぬきな)海星の子海雲と交り、隋(したがっ)て一脈 菘翁(すうおう)(=海星)と相通ずる所あり」と述べられ、純道の書の1例を載せています。貫名菘翁は「幕末の三筆」の1人とされます(他の2人は、巻 菱湖[まき りょうこ]・市川米庵[いちかわ べいあん])。伊古田純道の書の流れは小菅章雄氏のお父様武雄氏(小菅秩嶺)と、もう1人の弟さん久雄氏(小菅鶴邨)へと連なっているようです。

以前、私は蘭学の系譜を辿るうちに伊古田純道に行き着きました。今回、小菅章雄氏の1枚の絵から伊古田純道と図らずも再会しました。そして多くの芸術家と医家との遭遇がありました。その過程に偶然と必然を感じました。