このかたの過去は何だったのだろうか。
ひとりの患者さんを前に考え込んでしまいました。
お腹に何本もの手術創があります。どのような理由でどのような手術が行われたのか、見当がつきません。手術の既往と今の症状との間に関係があるようでもあり、ないようでもあるのです。情報がないと、何とも情けない気持ちになります。
認知症でご本人の記憶は失われました。手術にいつも付き添っていた母親は亡くなっています。父親はもっと前に亡くなりました。メモも日記も残っていません。少し覚えているという妹と弟がいます。しかし、それぞれ生活に追われ兄の手術に深く関与することはなかったとのことです。それでも、手術をした4つの病院の名前が分かりました。大学病院、国立病院、市立病院、赤十字病院。公立/公的病院ばかりです。期待しました。
すぐに問い合わせたところ、3つの病院からの返事は、「同じ生年月日、同名の患者様は確認できませんでした」。残る1つは診察券からIDが分かっていました。そこに最後の望みをかけました。
「IDの確認はできましたが、カルテはありません」。
すべてが忘却の彼方に消え去りました。
カルテの法的な保管義務期間は5年とされます。
「この5年、来院されなかったので廃棄しました。問題ですか」。
そう言われればそれまでです。廃棄は、膨大なカルテを保管する場所がないから、というのが主な理由です。しかし、カルテには患者さんの命の流れが綴られているはずです。それを見守った医師・看護師・その他医療者の記録があるはずです。外科医が心血を注いだ手術の記録もあるはずです。医療内容を振り返る貴重な資料でもあるはずです。そのカルテを捨てていいはずがありません。カルテは単なるメモではないのです。
カルテ保管義務5年というのは法律の不備であって、本来あってはならないと私は考えます。肝炎ウィルス訴訟で分かったように、数十年経ってから過去のカルテを参照することもあるのです。さらに、患者情報は患者のものであると最近は考えられるようになりました。病理検体は患者に属するという判例もあります。
現在、電子カルテ化が進んでいます。「忘却の彼方」はいずれなくなります。だからと言って、5年受診していない電子カルテ以前の患者さんの情報は捨て去ってよい、ということにはなりません。
電子ファイル化の技術が進み、その保存容量も格段に大きくなりました。廃棄する前に電子ファイルにする英断を下したらどうでしょうか。費用や人手の問題でどうしてもそれができないのであれば、本人・家族にカルテを「返却」したらどうでしょうか。最終受診から5年の期間であれば本人か家族の誰かには行き着くように思います。