恩師 黒田 慧先生

もうひとりの恩師、黒田 慧(あきら)先生のことを書き残します。

研究と論文を厳しく指導して下さったのが黒田先生でした。
単なる研究指導とは違います。真実とは何か、論理を尽くしているか、については決して妥協を許しませんでした。
論文を持っていくと徹底的に打ちのめされました。悔しいと思って反論しても、落ち着いた低い声で軽く論駁され、返す言葉がありませんでした。苦し紛れに呟くと、フッフッと微笑むのが印象的でした。優しさも持ち合わせていました。お酒が少し回ると朗らかな人間になりました。

学年で言えば11年上、年齢は15歳ほど上のはずでした。そもそも生い立ちがよく分かりません。樺太出身、新聞記者をしていたという噂がありました。本当かどうか、私には最後まで不明でした。太めの体を洒落た服で包み、身だしなみが素敵で、豊かな黒髪をオールバックにして黒縁のメガネの奥で常に鋭い眼光を放っていました。
黒田先生の机の周りは内外の文献や専門書がうず高く積まれていました。
学会では権威者に遠慮なくものを言い、ある意味嫌われ者でした。しかし、正論は正論。誰もが認める第一人者でした。
放射線診断学、病理診断学、消化器内視鏡学にも造詣が深く、「あの人は本当に外科医か」と他大学の外科医も他分野の専門家も畏れを抱いていました。
確かに手術場に立つことは比較的少なく、手術についてはどちらかと言えば、後輩の力量に任せていました。

私の手元に自分の初期(1979年)の論文原稿が残されています。引越しを重ね、多くの書籍や思い出の品を捨てたにも関わらず、この原稿だけは最後まで手元に残しました(図)。自分の原点だからです。
黒田 慧先生がとことん手を加えています。私の元の言葉はほとんどありません。打ちのめされるとはこのことです。尊敬する先輩とは言え、悔し涙にくれました。
あらためて清書すると、実にすっきりと論旨が展開されるのです。「てにをは」だけでなく、言葉の選択にこれほどこだわった人は、後にも先にも知りません。悔しさはやがて感嘆に変わりました。

黒田先生は、大学でも学会でも恵まれたポジションに就くことはありませんでした。ご本人は何も気にされず、淡々と学問一筋を貫きました。
私が自治医大の外科教授になっても指導の手を緩めることはされませんでした。厳しすぎると思わず口をついて出ることもありました。しかし、叱られるうちが花です。
そして、花でした。病に臥され、第一線を退かれました。2013年暮、黒田 慧先生は亡くなられました。

言葉の一語一語の持つ意味、そこから展開される論旨。細かく指導された経験が今の私につながっています。
それでも、この文章を読むと、黒田先生はきっとおっしゃるでしょう。
「永井、相変わらず冗長だな。言葉の選びも甘いよ。ああだこうだ言わず、論点を絞れ」。