医学生や若い医師に「医学書以外の本も読め」と指導してきました。指導してきたからには自分も読むように心がけてきました。とは言え、読む時間がなかなかとれないのも事実です。1つの工夫が新聞小説の利用です。
朝刊・夕刊を含む5紙の新聞小説を読んでいけば年5冊程度の小説の読書量になることを2019/11/25のブログで述べました。その新聞小説で最近感じたことを述べさせていただきます。
今月、新聞の連載小説2つが終了予告を相次いで出しました(茨城新聞:安部龍太郎「家康 知命編」、朝日新聞朝刊:中村文則「カード師」)。「家康」はシリーズものですし、同じシリーズが各地域の地方新聞に様々な期間で連載されています。全国紙の小説の終わり方とは異なるかもしれません。
小説を本で読むと、物語の終わりに近づきつつあることは、残りページが少なくなるので分かってしまいます。新聞小説はそれがありません。それが魅力なのです。いつものように読み進め、突如「完」が飛び込んでくるほうが「一巻の終わり」にふさわしいとかねがね思っていました。物語の突然の終焉こそ、物語だからです。人生に通じるものがあるからです。昔は終了予告などなかったように思います。いきなり最終回だと知り、茫然自失になったこともありました。
自分の人生も他人の人生も、虚構の世界であっても、前触れなく終わることにより真実が見えてくることがあります。
今年2月20日、夏目漱石を題材にした伊集院静の小説「ミチクサ先生」(日本経済新聞朝刊)が突然休載になったときの驚きは忘れられません(たぶん予告を読み落としたのだと思います)。さらに、その翌日から赤神 諒「太陽の門」が何事もなかったかのように連載され始めたのも衝撃でした。たった1日で漱石も新妻鏡子も、子規も虚子もいなくなり、スペイン内戦に入り込んでしまう物語の不思議をなすすべもなく受け入れていったのです。