妻の祖母 千里は明治36年(1903年)の生まれです。
平成6年(1994年)4月、数え92歳のときの書があります。
昔話を書き留めたものです。
義母の形見を整理していたとき出てきました。
義祖母は信州妻籠で義祖父とともに旅館を営んでいました(2019.11.26のブログ参照)。
地元の高等小学校を出たあと岐阜県の高等女学校に入学し、卒業後に結婚しました。
書を得意とし、私たち孫夫婦にもまめに手紙を送ってくれました。
今回見つけたのは、信州松本藩の倉科七郎左エ門の昔物語です(図右)。
主君の命で宝比べに京に上ったとき悪者に襲われたことが綴られています。
下に一部を掲げます(図中)。
皆さん、読めますか。
旧仮名遣いが多く読みにくいのですが、慣れると読めてきます。
こう書いてあります。
「(倉科様は山道を)登る。小垂(オダル)辺り 片側山で片側崖で 崖から落ちる滝が有ります。人一人やって通れるほどの細い道です。悪者達 絶好の場所と待ち伏せしてて一斉に襲いかかりました。多勢に無勢 倉科様は此処(ここ)で命を落される訳ですが、金の雞(にわとり)と金の蚕(かいこ)を悪者達に渡すの 誠に勿体(もったい)ないと女瀧の瀧壺へ投込んだそう(です。)」
このあと妻籠で今も語り伝えられる倉科様のエピソードが続きます。
金の雞と金の蚕を投げ込んだという滝壺は、その後、伊勢湾台風(1959年)で崩れてしまった、そのため神聖さを失ってしまった、と書かれています。
物語の最後のページです(図左)。
「(神聖)さを失ってしまいました。とにかく 昔のことは御破算に願ひます。」
明治の女は、字が上手で、物語を書き留め、ユーモアがあり、亡くなる直前まで頭と手を使っていました。
私自身が学ぶべきことであり、皆さんもぜひ学んで欲しいと思うことです。