晩年のカント

「晩年のカント」(講談社、2021)の著者中島義道氏は74歳です。哲学を志してから54年経つとのこと。私は72歳、医学を志してから同じく54年です。

中島氏はこう述べています。
「若いころは、カントをはじめ大哲学者たちの思索の高みに達することができたら、真理はより自分に見えてくると思っていたが、どうもそうではないらしいという予感が50歳を越えるあたりからじわじわと自分の体内に広がってきた。とはいえ、進歩していないわけではない。若いころの「浅はかさ」は痛いほどわかるようになり、還暦を過ぎても古稀を過ぎても、不思議なほど「進歩する」ことをやめないのである。むしろ、「若気の至り」を痛感するからこそ、当時わずかにでも解けたと思った問題は、じつのところ解ける糸口にも達していないこと、しかも、たとえそれが解けたとしても、その向こうにはさらに難問が控えていることが、体験的にわかってきた。哲学とはそういうものだ、ということがわかってきたということである」。

中島氏にとっての哲学と同じように、私にとっての医学もまた同じです。いつまでも「分かった」ということのない人生でした。

中島氏は自らのことを次のように述べています。
「40歳を過ぎて、『実用的見地における人間学』や『自然地理学』にも目を通し、そのころさかんに翻訳された彼の伝記を読み進めるうちに、カントのうちに「あれっ」と驚くような人物を見出すことになった。これまでわが国で伝えられてきた堅物の結晶のような哲人とはまるで違った血の通った、いや俗物の塊のような、ユーモアのセンス溢れる男に出会い、その難解きわまりない、しかもバカがつくほどの理想主義的な姿勢との乖離にひどく感動したのである」。

中島氏にとってのカントは、私にとってはおそらく患者だろうと思いました。患者は私にとって最大の難物であると同時に、何とも愛すべき存在でした。何度泣かされ、何度喜ばせてもらったでしょうか。

カントは「実践理性批判」(1788)で「一切の動機を排除し、純粋な義務遂行」を求めました。「バカがつくほどの理想主義的な姿勢」(中島氏)ではありますが、私にとっては身の引き締まる思いのする言葉です。
このときカントは64歳。中島氏の「晩年のカント」はカント69歳から死去する80歳までを扱っています。

なぜ中島氏はカントの70歳ではなく69歳からを晩年としたのか。
「70歳から始めてもいいのであるが、その前年に彼の生涯における最大の事件をひき起こした『たんなる理性の限界内における宗教』が刊行されたからである。これからちょうど10年間続くカントの最晩年は、まるごと『宗教論』が引きずるさまざまな濃淡の影に覆われていると言っても過言ではないであろう」。

私はと言えば、一大決心をして現在の病院に赴任したのが70歳でした(2019/7/5ブログ参照)。私にとっての晩年の始まりは70歳だと言えます。

カントの晩年はこうでした。
「1799年に入り75歳を越えたカントは、迫り来る精神のたそがれと闘っていた。物覚えが悪くなり、ついには、人の名前が記憶できなくなった。そこで、カントはアルファベット順に人の名前を書いた引き出しをこしらえて、訪問客があると、名前を聞いて、その引き出しを開けてから会見したという。いかにもカントらしい律儀さと悲壮さに溢れたエピソードである」。

結局、中島氏は「晩年のカント」でカントを語りつつ自分の人生を語ったように思えます。それはまた、中島氏とほぼ同世代の私のことでもありました。私はもちろん、2人には及びもしません。しかし、歩もうとしてきた道は2人に似ていると勝手ながら実感することができました。
最後は、晩年のあり方です。

カントかくありけり。中島氏かくありなん。我いかにあらん。

「晩年のカント」の表紙にこうあります(図参照)。
「哲学者は精神の黄昏といかに向き合ったか」。
若き日の生きざまに矜持を持ち、医師としての黄昏といかに向き合うか。
私に突きつけられた最後の課題です。

ときに優柔不断、ときに固陋頑迷、しかし気を付けながら、気を遣いながら、自分の道を歩むほかなし、かなあ。