昨夜のニュースで、プロ野球・西武ライオンズの平良海馬投手が連続無失点試合数を39試合に伸ばし日本新記録になったことを知りました。
ウィキペディアによれば、平良海馬投手は沖縄県出身の22歳。
「塁上の走者の有無にかかわらず、セットポジションからクイックモーションで投球する。直球の最速は160km/hで、平均153.8km/hを記録する。直球のみならず、スライダーやカットボール、チェンジアップなどいった切れのよい変化球も持ち合わせる。自費でトラッキングマシンの「ラプソード」を購入して数値と感覚とをマッチングさせ、変化球に磨きをかけている。球界屈指の速球を持ちながらも「いろいろな球種を投げたい」という考えの持ち主である」。
どの時代であれ、若者の台頭には心が躍ります。
しかし私が、何よりも強烈な印象を受けたのは名前でした。
「海馬」。
胸の躍る名前です。
なぜか。
医療者は「海馬」を「かいば」と呼びます。
平良投手は「かいま」です。
でも、「海馬」は海馬です。
常陽藝文*への寄稿で「海馬」を勉強しました。
(* http://www.joyogeibun.or.jp/shuppan/)。
2018年1月号に載せました。図1は以前にも本ブログで示したことがあります(2019/12/13)。
カイコや動物の脚を撮影した苦労話は割愛します。
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医学入門番外編 3
頭頸部の解剖と病理 〜海馬〜
茨城と東京を舞台にしたNHKテレビ小説「ひよっこ」。主人公の父親は出稼ぎで貯めたお金を強奪され記憶を失いました。同棲した女優の手紙によれば、大学病院の先生は「おそらくどうしようもなくりふじんで、おそろしく悲しいことが起きてしまったときに、それについて考えたくないというつよい気もちからきているのだろう」と言ったそうです。脚本は専門医師の指導を受けていますので、ドラマとは言え記憶喪失の医学的理由はそうなのでしょう。
小野武年の「情動と記憶」(2014)によると、記憶は短期(数分程度)と長期に分けられ、長期記憶には陳述記憶と手順記憶があります。陳述記憶は「いつ・どこで・何が・どうした」、手順記憶は「ピアノ演奏や自転車運転」という記憶です。陳述記憶の主な中枢は海馬にあり、手順記憶や短期記憶は脳全体が関わります。こうした知見はアメリカの患者HMから得られました(1957)。HMは難治性てんかんのため止むなく両側の海馬領域を切除され、てんかんは軽快したものの想定外の陳述記憶障害が生じました。とくに新たに記憶できない重度の前行健忘と、術前の記憶が出にくくなる中等度の逆行性健忘が生じました。しかし短期記憶や手順記憶は障害されないため、数字の復唱ができ、言葉や動作の異常はなかったとされます。
父親は前行健忘がなく手順記憶も残り、逆行性健忘だけが重度でした。最後は家族の幸せとハヤシライスの味と香りで記憶を取り戻します。海馬の内前方には扁桃体が接しています(図1)。扁桃体は情動=喜怒哀楽の中枢です。どちらの中枢も嗅覚や視覚、触覚などと密につながっています。父親の逆行性健忘症と記憶回復は海馬と扁桃体との関係で分かる気がします。
海馬はhippocampusの和名です(hippo=horse馬、campus=sea monster海獣)。小川鼎三の「医学用語の起り」(1990)によれば、アランチがギリシャ神話のヒポカンプス(図2)の屈曲した前脚を連想し名付けたとされます。魚の学術名hippocampus(英名seahorse)はタツノオトシゴです。海馬領域と続きの脳弓〜乳頭体とを一緒に摘出するとタツノオトシゴに似ます(図3)。海馬に接する歯状回は臼歯が並ぶような形をしており、タツノオトシゴの胸の分節を連想させます。「海馬は神話動物の連想なのか、タツノオトシゴに由来するのか」との問いに対し、小川は「タツノオトシゴの学名自体がおそらく脳とは独立に、やはり神話の海馬を連想してつけられたものとおもう」と記しています。
この説は再考を要します。ルイス(1926)はラテン語原著(1587)の翻訳と様々な論考でアランチが連想したのはタツノオトシゴだとしました。カイコも連想したとのことです。ラテン語campusはcaterpillar毛虫を意味し、そもそもタツノオトシゴは「馬+毛虫」として名付けられ、だからカイコの連想にも通じるとルイスは言うのです。
神経解剖用語辞典(Oxford社2015)もタツノオトシゴ説です。しかし海馬を脚・足に例える学者は後をたちません(図4)。タツノオトシゴの頭部が海馬足という解剖用語に正式決定されルイスを嘆かせました。カバやライオンの足ともされます。雄鶏の脚とみなし、途中から後方に向かう隆起を蹴爪(けづめ)と呼ぶ者もいました。蹴爪のラテン語calcar avis(鳥距)は正式の解剖用語になりました。ちなみに鳥距とその脳表にある鳥距溝は後頭葉の視覚中枢=一次視覚野の重要部分です。
海馬の機能と形態は次々と連想を生み興味が尽きません。
図1.左海馬と周辺組織(左の前頭葉・頭頂葉・島葉の全体、後頭葉の上半分、側頭葉の上2/3を除去)。大脳内部の左右に脳脊髄液で満たされた側脳室がある。側脳室を開けると海馬が見える。海馬からつながる脳弓〜乳頭体は大脳下縁をほぼ一周する。海馬の隣に情動中枢の扁桃体があり、尾状核・レンズ核などとつながる。海馬や扁桃体を含む領域は大脳辺縁系と呼ばれ、嗅・視・聴・触痛覚や運動神経系ともつながる。運動・体性感覚系は頭頂葉にある中心溝のそれぞれ前・後の神経支配を受ける(支配域は頭部と手が異様に大きい体型となりホムンクルスと呼ばれる)。その神経路は尾状核とレンズ核との間(内包)を通って運動系は下方へ、感覚系は上方へ向かう
図2.ギリシャ神話の海獣ヒポカンプス(上半身が馬で下半身は魚、筆者蔵)。騎乗するのは海の神ポセイドン。脳の海馬が海獣の屈曲前脚から名付けられたとすると、左海馬は海獣の右脚ということになる。この左右違いは海獣前脚説に不利に働くと筆者は考える
図3.ヒトの左海馬領域とタツノオトシゴとの類似性(Wikipediaから引用、ただし図1の左海馬に合わせるため原図を上下左右反転している)。解剖用語は筆者が記入。
図4.海馬とその異名のもととなる動物の形態。aヒトの左海馬(図3の部分回転)、bカイコ(ひたちにしき、阿見町蚕業技術研究所)、cカバの左足(日立市かみね動物園)、dライオンの左足(同園)、e雄鶏の左脚と蹴爪(矢印)(天然記念物 日本鶏小国、桜川市雨引観音)。