災害医療

現在、地元の医師会では災害に備えた準備が進められています。

10数年前、私は前任地の県立病院で院長を務めていました。災害対策は最重要課題の1つでした。前任地の県には原子力発電所(原発)がありました。災害対策は原発事故関連も含んでいました。
私が初めて県の原子力防災対策検討委員会に出たときの戸惑いを今でもよく覚えています。
「放射線被曝にはいろいろあります。コンクリートの建物に入っていれば問題のないのもありますが、中性子線だとコンクリの遮蔽は何の役にも立ちません」。
ちょっと待てよ、と思っても議事は次第に沿って淡々と進んでいきました。およそ1時間半で対策案は「異議なし」で了承されました。
何年も続いている検討委員会に県立病院院長という当て職で参加しても異議を挟む余地はありませんでした。

この委員会の在り方に猛然と異議を唱えたジャーナリストがいました。地元の放送局に勤めるSさんです。委員会の重鎮からは煙たがれていました。

Sさんは私の部屋によく顔を出しました。いつも県の地図を携帯していました。その地図には、原発を中心に回る円盤が付いていました。円盤の大きさは確か半径10kmを表していたと思います。円盤には矢印が描いてありました。矢印は風向きを指すというのです。「もし風が北東から吹けばこちらに、南の風だったらこちらに原発の汚染物質が流れて行くのですよ。だからどの方向に逃げればよいかが一目で判るんです」。熱く語るSさんの話を私はふんふんと頷きながら聞いていました。

あるとき、「院長、今度、身体障害者の避難訓練を行います」と知らせに来ました。住民避難はあくまでも一般の健康な人を念頭に置いています。
「それではだめだ、原発事故のとき身体障害者はどう避難すればよいか、誰が支援し車をどう動かすか。それを考えなければならない。考えるだけではだめだ、実際に訓練しよう」。
確かにそうですね、と応えても、一緒にやりますよ、とは言えませんでした。原子力防災対策検討委員会の「恐ろしい」話からすると、もし事故が起きれば訓練で済むようなものではないのではないか、むしろ「起こらない」ことを前提に検討委員会は対策案を考えているのではないか、とさえ思えました。だからこそSさんは焦っていたのだと思います。私は迷いつつも、最悪の事態を考えることから逃げていました。

県立病院院長として原発事故だけでなく他の災害に対する対策委員会にも多く出席していました。院内、地区医師会、県それぞれに災害対策委員会がありました。災害対策マニュアルの改訂にも関わっていました。

そして、2011年3月11日を迎えました。
北関東にあった私の県立病院も大きな被害を受けました。病棟の壁に穴が開き余震が続けば「耐震性はある」と言われてもパニックになります。全入院患者を屋外にいったん避難させました。戦場のような怒号が飛び交いました。
夜になって救急センターで緊急分娩がありました。産科医不在で産科撤退を余儀なくされて5年。突然の出来事でした。分娩予定の病院に行けなくなった妊婦さんが飛び込んできたからです。赴任したばかりの婦人科部長と助産師経験のある看護師長が「昔取った杵柄」を披露してくれました。混乱の現場に拍手が湧きました。

停電は数日に及びました。非常用電源の燃料が足りなくなりました。上水道が止まりました。下水を汲み上げる市の下水場のポンプが止まったため病院のトイレが溢れました。「水を使うのを控えろ、水を流すな」の指示を出しました。
隣県の原発事故の影響が及び始め、屋外の放射線量が10倍となりました。「車の埃は触れないように」という注意が出されました。

1週間で電気の供給は安定し、上下水道が使え、フルの診療再開に漕ぎ着けました。自分の病院、地区の医療を立て直すと同時に隣県の医療支援に向かいました。昼夜を徹して患者搬送に携わりました。

大きな学びが1つありました。
電気が止まり、上下水道が止まり、建物崩壊の不安の中にあっても、人は何と逞しく行動するか。オートクレーブが壊れても手術できる環境にどう持ち込むか、自院が非常事態のなか隣県の原発事故対応への協力をどうするか。人間は何とか考え抜き、何とか成し遂げるものだ、ということを知りました*。

事前対策はもちろん大切です。しかし、災害は想定を遥かに超えます。
その想定以上のことに対応するには、普段の診療のひとつひとつを最高レベルで行っておく以外にない、と思います。裏を返せば、普段の診療を常に高いレベルに保っていれば、(命のあるかぎり)災害は恐れずに足りずとも言えます。

*2011/3/11-3/31の記録

https://drive.google.com/file/d/1wxCpRA3OtcGVgf1Qh2yMumKAQgRw9N5T/view?usp=sharing