世界で最初に発がん物質の存在を動物実験で証明したのは日本人です。その発見にまつわる「新発見」を前任地の茨城で見出し、記録に残しました。以前にも紹介した常陽藝文 医学入門番外編シリーズの1つです(2020/10/6・2021/4/13・2021/7/2ブログ参照)。お許しを得て再掲します。この文章を書いたのは3年半前です。当時は受動喫煙対策が進んでおらず、最後に恨み節を書いてしまいました。今はだいぶ改善されていることを付け加えます。
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医学入門番外編7 がんの話題 〜発がん物質〜
がんはなぜできるのか。昔から疑問でした。近代に入ると様々な経験知から遺伝説や迷入説などいくつかの仮説が出てきました。1858年ドイツのウィルヒョウは、繰り返す炎症からがんが発生した例を示し、炎症刺激説を唱えました。こうした仮説の検証に動物実験が行われるようになりました。もし人工的にがんができれば、がんの原因究明さらに予防と治療につながる、この思いで世界の研究者が発がん実験に挑みました。しかし簡単ではありませんでした。
ウィルヒョウのもとに留学した山極勝三郎(やまぎわ かつさぶろう)は帰国後、恩師の説に基づき独自の実験を試みました。イギリスの煙突掃除夫に皮膚がんが多いことから刺激剤としてタールを選び、兎の耳に傷をつけてはタールを擦り込むことを繰り返しました。山極教授の指導で実際の実験にあたったのは茨城県雨引村(現 桜川市)出身の市川厚一(いちかわ こういち)でした(図1、2、3)。市川は多くの困難を乗り越え、遂に人工発がんに成功します(図4)。忍耐強く続けたお蔭です。この功績で山極・市川の両氏は1919年、日本最高の帝国学士院賞を授与されました。山極55歳、市川31歳でした。ノーベル賞も選考ミスさえなければ受賞したと言われます。
タールのどの成分に発がん性があるのか。その研究はイギリスで進められ、1930年代にジベンゾアントラセンとベンゾピレンという発がん物質が明らかにされました。その後、環境や化合物、食品からも発がん物質が続々発見されました。2012年、換気の悪い印刷所で若〜中年の従業員17名が胆管がんに罹患し、うち8名が死亡していたことが日本で判明しました。原因は有機溶剤中のジクロロプロパンとジクロロメタンという発がん物質でした。2016年、日本の化学工場で膀胱がん患者が相次いでいたことが判明しました。染料のオルト-トルイジンという発がん物質が皮膚から吸収されていたのです。
タールの発がん実験から100年。現在、がん化の始まりは「遺伝子の変異」によるとされます。すなわち、細胞増殖の促進(=アクセル)または抑制(=ブレーキ)に関わる遺伝子(=DNA)が変調し、無制限に増殖して浸潤・転移をする性格(=暴走)の芽ができるとされます。がんの芽となった細胞は体の持つ修復力や免疫力で多くは淘汰されますが、一部は生き残り、やがて生命を脅かす本格的ながんになっていきます。発がん物質は化学反応で細胞に遺伝子変異を起こさせ、がん化に向かわせます。遺伝子変異は化学物質だけでなく、放射線やある種の細菌・ウィルスによっても起きることが分かってきました。不適切な生活習慣(喫煙、過飲酒、運動不足、肥満・痩せすぎ、塩分過剰・野菜果物不足)でも、がん化の促進や免疫力の低下からがんリスクが上がることが分かってきました。遺伝の関与は意外と少ないことも分かってきました。
がんの原因究明はここまで進みました。次は予防につなげることです。発がん物質とその類似物質は、法規制によって日常生活の中からほとんど排除されました。しかしタバコは、タールなど数十種類の発がん(類似)物質と数百種類の有害物質とを排出するにもかかわらず、日本では甘い規制になっています。タバコに暴露されたくない人、暴露させてはいけない人(子どもや喘息患者)への受動喫煙対策がとくに遅れています。日本はタールという発がん物質を世界に先駆けて明らかにしました。そのタールを含むタバコが日本ではまだ十分に規制されていないのです。残念でなりません。
図1.市川厚一の肖像写真と墓(市川稔氏の御厚意による。以下の資料も同じ)。1888年茨城県雨引村にて出生。雨引小学校、東京府立一中を経て、東北帝国大学農科大学(前身は札幌農学校、のちの北海道帝国大学)畜産学科に入学、卒業後は東京帝国大学病理学山極勝三郎教授の特別研究生となる。人工発がんに成功した後は北海道にもどり、北海道帝国大学農学部に比較病理学講座を創設して初代教授を務めた。戦後、病気のため大学を辞任、雨引村に帰省して療養に努めたが1948年札幌にて逝去。遺骨は雨引村共同墓地に埋葬された。市川家は八幡神社と所縁があり墓は神式で藤原の名を戴く。博と篤から厚一の人柄が偲ばれる。墓前は甥の市川家当主・稔氏、背景は加波山。
図2.山極勝三郎から市川厚一に宛てた多くの手紙。肺結核を患っていた山極は自宅で静養していることが多かった。発がん実験に直接関わることは少なく、市川に対して頻繁に手紙で指示を送っていた。
図3.山極勝三郎から市川厚一に宛てた手紙の一部。「拝啓 その後いよいよ御勇健、兎癌のほうをしきって御研究下さり感謝いたします。さて小生、病気も何やかやまだ全癒に到らず、時々血痰が出るためそのつど平臥。ためにまだ登校を試みることができず遺憾であります。」(藝文学苑講師佐久間好雄先生から示唆をいただき筆者が現代語風に書き換えてみた)。
図4.市川厚一生家前の碑(桜川市東飯田)。人工発がんに成功したとき山極勝三郎(曲川)は「癌出来つ 意気昂然と二歩三歩」の句を作り、市川(北極)は「世捨人 三五の糧に生くるとも 鏡下に見ゆるものは錦繍」の歌で返したとされる(三五の糧とは月給15円のこと)。曲川は山極の出身地・長野県上田市を流れる千曲川に因む。北極は北海道に縁のあった市川の雅号である。なお「癌出来つ」の句碑は東京大学病理学教室の外壁にも掲げられている。