終戦の日、純を思う

今年の8月15日(土)は終戦の日であると同時に、日本外科学会の最終日でもありました(会頭:慶應義塾大学医学部外科学北川雄光教授)。

今年の学会は第120回、大還暦の大会でした。完全オンラインでの開催となりました。大会3日目は土曜日。朝から夕方まで病院にいながら、つまり外来・病棟の業務をこなしながら、学会発表を聴くことになりました。限られた時間ですので、ふだん知ることのない領域を可能な限りのぞいてみました。

その1つが心不全チーム医療でした(ワークショップ15 ハートチームによる心不全治療の実際)。VAD(ventricular assist device、心室補助装置)と呼ばれる補助人工心臓は内科・外科共通の関心事です。心臓移植への橋渡しとして開発されたVADですが、移植の実現が先延ばしになる中、生命維持装置として欠かせぬ長期治療手段となっているようです。内科と外科の共通・共同の診療体制の重要性が専門外の私にも痛いほど分かりました。どの演者も強調していたのは、内科・外科という医師同士の協力体制だけでなく、看護師・リハビリ療法士・ソーシャルワーカー・事務職など他職種の役割です。「ラッキーでした」というコメントは、他職種・多職種の有能性・有用性に刮目したことを表現する言葉でした。今さらの感なきしもあらずですが、遅れてでもこれに気づいてくれたことを素直に喜ばなければなりません。特に大阪大学附属病院の心不全緩和ケアチーム(心和チーム)の取り組み(大阪大学心臓血管外科 吉岡大輔ほか)は「当たり前の極致」を達成していると思いました(図)。
「当たり前のことを当たり前に行う」のは「純の極致」ですが、実行は実に難しいものです。

午後は、医学生の演題を続けて視聴しました。発表の裏では先輩外科医の必死の指導があったのは間違いありません。若手医師の発表と遜色のないスライドだったからです。だからこそ、と思ったのは、厳しい目で言わせてもらうと、学生らしい視点が欠けていることでした。概して早口で盛りだくさんの内容を喋っていたこと、そのわりに結語は正直平凡だったこと、が残念でした。医学生の足を引っ張ってはいけないと思いつつ、学生らしい「純」の視点が欲しかったと思いました。

8月15日は終戦の日。今年は75周年でした。第二次世界大戦、それに続く団塊の世代の誕生、今の時代の超高齢化社会については、昨年夏、3回連載で書きました(2019/8/19・20・21)。これ以上のことも、これ以下のことも私にはありません。従って、繰り返しません。
今の状況は過去からつながる一連の流れにあることだけは知っておいて欲しいと思います。良かったか悪かったかは別にして、それぞれの時代の「純」が今を作っているのは間違いありません。