羽後花岡へ

1940(昭和15)年、私の父 亮二(りょうじ)の論文「人体ニ於ケル抗腸チフス菌経皮免疫ノ研究」が日本外科宝函(1940.9.1発行)に掲載されました。同論文は同年9月11日、京都帝国大学医学部教授会に学位論文として提出されました。12月3日、教授会を通過。医学博士の学位授与が決まったのです。父32歳でした。

教授会通過の日、父は恩師であり論文の指導教官であった鳥潟隆三(とりがた りゅうぞう)先生に手紙を送りました。感謝の言葉で溢れていたはずです。手紙は、勤めていた豊橋陸軍病院のある愛知県から秋田県に鉄道便で届けられました。
鳥潟先生は1938(昭和13)年、京都での日本外科学会主催を機に京都帝国大学外科教授を退官されました。退官後、父方の故郷であり御自身も幼少期を過ごされた秋田県北秋田郡花岡町(現 大館市花岡町)に居を移していました。

3日後の12月6日付で鳥潟先生から返信がありました。
差出人「羽後花岡 鳥潟隆三」の葉書は墨筆の候文で記されています。
「三日附の御手紙によれば学位論文通過のよし 何より御目出度 また大(い)に安神致候 折角御自寛 十分御努力是能候 匆々不尽 十二月六日 鳥潟」
この葉書を父は101歳で死ぬまで大切に保管していました。

鳥潟家の旧宅は鳥潟隆三先生が中心となって改修・増築し庭園を整備しました。京都から多くの大工・左官・庭師を呼び京風の意匠に仕上げたとのことです。戦後、鳥潟邸は花岡町に寄贈され、現在「鳥潟会館」として大館市が管理しています。最近ここを訪れた友人が「必見だ」と知らせてきました。

そうだ、羽後花岡に行こう。

病院の状況とコロナの動きを睨みながら先の二連休、出かけました。