自治医大には16年いました。医学教育にはそれなりに燃えました。医学生には外科の面白さを教えたつもりです。
外科医を目指さなくとも、総合医として外科を含めた全ての医学を一通り理解して欲しいことをお願いしました。外科の医局員には、「やってみせる、やらせてみる」を繰り返しました。自分に厳しく、他人にも厳しく、を貫いたつもりです。
術後合併症カンファレンスを定期的に開き、合併症の軽減には特に注力しました。手術関連死亡をともかくゼロにすることを目指しました。そのためには外科だけでなく内科も勉強するよう要求しました。
看護師やコメディカルとの他職種協働を進めました。大学ですので、教育と診療だけをしていればよいというものではありません。研究は大学人にとって重要な位置を占めます。研究費を獲得し、独創的な研究を進め、英語論文にして世界に向けて発信することにも努めました。
助教授8年、教授8年務めるなかで、少なくとも大学赴任の目的であった患者の視点に立つ全人的医療は徐々に完成形に近づいてきたという思いがありました。一方、医療のもうひとつの貧困としてとらえていた医療体制の問題に対しては、無力感を持ち続けていました。
国の医療費抑制策が続くなか、医療事故、医療者告発、医療裁判など次々と医療現場の問題が顕在化し、救急医療では医療崩壊が叫ばれていました。医療提供体制の充実をいくら図っても限界だと感じるようになりました。
ではどうするか。
医療を受ける側の体制(=受療者対策)がほとんど整備されていないことに問題があると気づきました。国民への医療教育が必要ではないか、と考えるようになっていきました。
「国民全員に医療を学ばせる」というものです。
国民への医療教育、できれば義務教育のうちからの医療教育が必要だと論理的に結論が出ても、大学に身をおく限り困難が伴うことは自明でした。大学定年後の仕事として行うしかないと考えていたとき、私に肺がんの診断が下りました。
これがきっかけで大学を出て国民の医療教育に余生を賭けようと思いました。しかし手術の所見は、肺がんではなく、気管支喘息を背景にした炎症性腫瘤でした。喜ぶと同時にある種の虚しさを感じました。
その時に舞い込んできたのが茨城県立中央病院の院長要請でした。
私としては院長のポストに魅力を感じていませんでしたが、院長を引き受ける条件として県内での医療教育実践を要求してみたらどうだろうかという思いが生まれました。
国全体を動かすことは難しくても、県として試みることは可能だろうと考えたのです。この条件を提示したところ、意外にあっけなく県は了解してくれました。こうして次のステップに進もうと決断しました。それが療養所の仲間との約束でもあると感じました。
2007年春、大学の定年まで5年以上を残して妻と二人で茨城県に移住しました。