オランダに留学する女性外科医を前回紹介しました。
オランダと言えば、日本の近代科学に寄与した蘭学を思い起こします。
とくに医学は蘭学に負うところが大きかったと思います。ところが、日本の現代医学の中で蘭学を意識することはほとんどなくなりました。神経・動脈・十二指腸・膵臓という今や当たり前の解剖学用語が蘭学の賜物であるのに・・・。
そこで、数年前、蘭学について小文を発表しました(「常陽藝文」2017年11月号、2020/10/6ブログ参照)。公益財団法人常陽藝文センターの許可をいただき再掲させていただきます(若干の修正あり)。先人の歩みを知ることは、これからの私たちの方向性を示すことにもなるからです。
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常陽藝文 医学入門番外編 第2回
医学の歴史〜蘭学〜
解体新書(図1)の刊行(1774)は人体解剖に関する日本人の知識を劇的に変えました。1722年にドイツで出版された「Anatomische Tabellen 解剖図譜」が1734年オランダ(蘭)語に翻訳されて「Ontleedkundige Tafeln」となり日本に入ってきました。ターヘル・アナトミアと通称されていました。杉田玄白の蘭学事始(1815)によれば、1771年初頭に玄白と中川淳庵(なかがわ じゅんあん)は藩(若狭国小浜藩)の援助をもらってターヘル・アナトミアを江戸で購入しました。同年3月4日千住骨ヶ原での腑分けで一緒になった前野良沢(まえの りょうたく)も、前年に長崎で求めたという同書を持って来ており、手を打って驚き喜んだとのことです。腑分けの実見で同書の正確さに感嘆した3人は帰路、翻訳を決意し、翌日良沢宅に集まって作業を開始しました。神経、動脈、十二指腸など多くの日本語の解剖用語は、解体新書に由来するとされます。
私は数年前の晩春、東北の桜を観る旅で秋田県の角館に立ち寄ったことがあります。武家屋敷の1つ青柳家の資料館に解体新書の原本が展示されていました。
「なぜここに?」この疑問の答は解説に書かれていました。解体新書の図はターヘル・アナトミアの原図をそのまま使ったのではなく、日本人画家の手で描き直されたものでした。その画家が角館の武士・小田野直武(おだの なおたけ)です。青柳家と小田野家は姻戚関係にあり、ともに角館領主・佐竹北家に仕えていたとのことです。鉱山の視察で秋田を訪れた平賀源内が直武の画才を見抜き、江戸で杉田玄白らに紹介したとされます。佐竹、青柳、小田野の家はもともと常陸国にありましたので、茨城県との浅からぬ関係を感じました。また、青柳家の玄関を入って正面の壁一面に、長久保赤水(ながくぼ せきすい)の日本輿地路程(よちろてい)全図(1781)(通称「赤水図」)が掛けてありました。赤水は常陸国高萩の出身です。茨城との縁をここにも感じました。
茨城県で蘭学と言えば、雪の結晶の古河藩主・土井利位(どい としつら)に仕えた家老・鷹見泉石(たかみ せんせき)(1785 – 1858)です(図2)。泉石とその仲間は日本人同士でも仮名混じりの蘭語で手紙のやりとりをするほどでした。泉石32歳のとき、オランダ商館長ブロムホフからヤン・ヘンドリック・ダップルという蘭名をもらいました。なぜこの蘭名だったのでしょうか。英語で言えばヤンはジョン、ヘンドリックはヘンリーですのでありふれた名前です。ありふれた名前だけで喜ぶ泉石ではないと思います。命名者のブロムホフと世話になった前任の商館長ドゥーフのファーストネームはそれぞれヤンとヘンドリックです。ダップル(dapper)は蘭語で「勇敢、勇壮」を意味し、武士を彷彿とさせます。House of NamesによればDapper家はゲルマン民族の由緒ある家柄で、家紋には勇猛を意味する赤色の盾が入っています。こうした由来ならば泉石も気に入ったのではないでしょうか。
蘭学は日本の外科学にも貢献しました。世界で初めての全身麻酔で乳がん手術(1804)を行った紀伊国の華岡青州(はなおか せいしゅう)、日本初の帝王切開(1852)を行った武蔵国の伊古田純道(いこた じゅんどう)と岡部均平(おかべ きんぺい)が代表例です。後者の記念碑は私の故郷・埼玉県飯能市の辺鄙な山里にあります(図3)。蘭学が実学としても日本の隅々に行きわたっていたことに驚きます。
図1.解体新書の表紙(国立国会図書館蔵)。絵は小田野直武によるが、ターヘル・アナトミアの表紙ではなく、ワルエルダ解剖書(スペイン語原本1556、蘭語翻訳1568/1614)の表紙を参考にしている。
図2. 鷹見本雄著「オランダ名ヤン・ヘンドリック・ダップルを名のった武士 鷹見泉石」(岩波ブックセンター 2011)。本書は片桐一男著「蘭学家老 鷹見泉石の来翰を読む(蘭学篇)」(岩波ブックセンター 2013)とともに第7回ゲスナー賞を受賞した。
図3.埼玉県飯能市吾野の本邦帝王切開術発祥之地記念碑。レリーフ像:(左)岡部均平・(右)伊古田純道。人物像の間に伊古田の文章が刻まれている。冒頭は「嗚呼実ニ西醫ノ賜ナリ」とある。なお飯能市は茨城県高萩市と姉妹都市を結んでいる。水戸徳川家初代附家老中山信吉は高萩松岡城主でもあったが出身は飯能であり、信吉公の像・墓塔・木碑は私の実家のすぐそばの智観寺にある。幼いころ境内でよく遊んだものである。