中学生の頃に読んだヘルマン・ヘッセ、高校生の時のハンス・カロッサ、トーマス・マンの影響でドイツ語に興味を持ちました。大学の第二外国語でドイツ語を習いました。大学紛争で講義がないとドイツ語の語学学校に通い詰めました。
医師になってからは留学するならドイツだと考えていましたが、その機会はなかなか訪れませんでした。30歳代の後半になってようやく願いが叶いました。

フンボルト奨学生として1986-1987年の1年7ヵ月西ドイツに行きました。ヘッセン州マールブルクの語学学校で3ヵ月を過ごしたのち、バイエルン州ヴュルツブルク大学で研究に従事しました。
エゴの強い国民性があります。研究の方法、結果の解釈を巡っては大きな声で自己主張をしないとダメだと気づかされました。研究は急性膵炎の成因に関するもので、リパーゼと脂肪組織の相互作用だというのが結論でした。その成果はのちに急性膵炎の外科治療を考える上で役立ちました。
ドイツには家族4人で行きました。子供2人には、平日は現地の小学校、毎週土曜日は車で1時間のフランクフルトの日本人学校に通ってもらいました。

ドイツ留学で職住接近の良さを覚え、その後の国立療養所東京病院赴任を後押ししました。
当時のドイツは、冷戦の影響で東西に分かれて40年以上が過ぎていました。周りの西ドイツ人は、ドイツ再統一はもうあり得ない、と悲しげに首を振っていました。ベルリンの壁にまつわる悲劇(西に逃げようとして射殺される事件)は続いていました。現地の新聞を読んでいると、その悲劇を報じる記事がある一方で、不可解なニュースも載っていました。
例えば、東ドイツの政治犯を西ドイツ政府がお金を出して買い取る「自由買い」が存在すること、東ドイツの軍事演習に西ドイツ軍参謀が招待されたこと、西ドイツでのミス・ドイツ選考会に東ドイツ代表の美女が参加したこと、などが報じられているのです。
イデオロギーの違いをお互い認め合いながらも、東西ドイツは裏で手を結んでいると感じました。帰国後、大学同窓会報にそのことを書きました。誰も信じてくれませんでした。

しかし、ベルリンの壁が崩壊したのは、私の帰国後2年弱、同窓会報から1年半後のことでした。
その後の私が、手術に対しても、医療に対しても、行政に対しても、「おかしいことはおかしい」と強く言うようになったのは、ドイツ留学の体験から来ているのです。


(東京大学第一外科同窓会だより第21巻第1号、1988年5月1日発行。文中の通貨ドイツ・マルクは当時1マルク≒100円。1991年、欧州連合EU条約締結後にマルクは廃止されEU統一通貨ユーロに代わった)