今週の連休まで、そごう大宮店で「近代工芸逸品店〜人間国宝作品を中心に〜」が開かれていました。そこに、益子焼の島岡達三先生の遺品2点が展示されていました。
島岡先生には特別な思いがあります。敢えて先生と呼ばせていただく理由があるのです。
20数年前のことです。
金曜日の夜でした。
大学の医局で若い教室員が学会の発表スライドをPCで準備していました。
専門分野が異なるので自分は共同演者ではありません。それでも何気なくPC画面の症例一覧表を覗くと、1例だけ「転帰不明」となっていました。
「狭い日本なのに手術後どうなったか分からないなど、考えられないね」。
「でも、先生、カルテにある電話番号は今使われていないのですよ」。
若手外科医はムッとして反論しました。
「家族の情報があるだろう」。
「もちろん、調べましたよ。でも誰とも連絡が取れないんです!」。
「どれ、カルテを見せなさい」。
当時は紙カルテでした。めくると、看護師の書いた家族欄にそれなりの情報がありました。電話番号も記されていました。その電話番号はどれも「只今使われていません」になるのだというのです。なるほど、手は尽くしたということか・・・。
それでもヒントがありました。
1つは住所、栃木県益子町。もう1つはご主人の名前、皮埃尔。
名前は外国人、読みはピエールではないか。
益子町の外国人なら益子焼に関係があるのではないか。
以前訪れたことのある「益子焼窯元共販センター」に電話してみたらどうか。
「もう夜だから、明日調べてみるよ」。
若手にはそう話して別れました。
翌日の土曜日、午前中に「益子焼窯元共販センター」に電話をかけてみました。当時、自宅にあった宇都宮市版のタウンページで電話番号は簡単に分かりました。
電話に出たのは威勢のよい中年の女性(書きづらいのですが、いわゆる「おばちゃん」)でした。
「ピエール?・・・。ちょっと待って、聞いてみるから」。
近くの誰かと話しているようでした。まもなく、電話に戻ってきました。
「島岡先生のところに居たそうよ」。
「島岡先生ってどなたですか?」
「えっ、島岡先生を知らないの!?」
「すみません・・・」。
「島岡達三先生だよ!人間国宝の!」
「はっ、はい、ありがとうございます」。
先ほどのタウンページで益子町の島岡達三を調べると電話番号が載っていました。人間国宝とのことですので、気軽に電話をかけてよいものではありません。しかし「狭い日本なのに・・・」と言った手前、電話をしないわけにはいきません。ひょっとして同姓同名の人違いかもしれないと思いつつ、恐る恐る電話をかけました。
すぐにつながりました。奥様でした。
「陶芸家の島岡達三先生のお宅でしょうか?」。
「そうです」。
身分と名前を明かした上で、「ピエールさんのことでお聞きしたいのですが・・・」と切り出すと、「あなた〜」と呼んでくださいました。
「もしもし」。
落ち着いた声で島岡先生が電話口に出てくださいました。
「あっ、ピエールね。いましたよ。ええ、奥さんは日本人でしたね。そうそう、病気で亡くなりました。ピエールは、奥さんが亡くなったあとフランスに帰りましたよ」。
これで、転帰は死亡だと分かりました。
いつ亡くなったか、が次に問題となります。学術発表では「◯年◯カ月生/死」の◯の数字が重要です。
「さあ、いつ亡くなったかな。仲間にフランス人のマルタンがいたから、彼に聞けば分かるのではないかな。ちょっと待ってください。電話番号があったはずだから・・・」。
まもなく、同僚の電話番号を教えてくださいました。今は山形に住んでいるとのこと。奥様はやはり日本人で本人もピエールよりは日本語が上手だから大丈夫、とまで言ってくださいました。
続けて、山形に電話してみました。
女性がすぐ出ました。
マルタン氏はその日、東京の個展に出かけているとのことでした。
「夕方には戻るのでこちらから電話を入れますよ」。
土曜日夜、マルタン氏から電話がかかってきました。
理由をお話しして、ピエールの奥様がいつ亡くなられたかを知りたい、と伝えました。
「ピエールは今、フランスにいます。電話番号を知っています。ナガイさんが電話しますか、それとも私が電話しますか?」。
「ぜひ聞いてください」。
一瞬、冷や汗が出ましたが、うまくお願いすることができました。
マルタン氏からの次の返事は翌日、日曜日の夜に届きました。
ピエールの奥様は栃木県△△市の□□病院で19〇〇年◯月◯日〇〇時◯◯分に亡くなったとのことでした。年月日だけでなく時刻まで覚えていました。
翌朝、月曜日、病院に着くとすぐ若い医局員に「転帰が分かったよ」と教えてあげました。
島岡先生の奥様には後日、電話で丁重に御礼を述べさせていただきました。
「島岡達三先生には直接お目にかかって御礼を述べたい」とお伝えしましたが、その機会は直ぐには訪れませんでした。
それから10年ほど経った2006年1月、さいたま市のソニックシティで学会がありました。大宮駅西口を出てペデストリアンデッキを歩いていくと、「そごう大宮店・島岡達三展 開催中」の垂れ幕が目に入りました。学会開始には少し時間がありました。展示場を覗いてみると、島岡達三先生がいらっしゃいました。
近づくのに勇気がいりました。しかし、この機会を逃したらもうお会いできないと覚悟して声をかけました。
当時のことをお話しし、あらためて御礼を述べました。私の電話の記憶は残念ながら失くされていましたが、ピエールのことはよく覚えておられました。ただ、「ピエールは2−3年前に死んだ」と声を落として話されました。
その島岡達三先生は翌年、亡くなられました。
同じデパートでの今回の展覧会には、没後13年になる島岡達三先生の「辰砂釉草花文象嵌扁壺」と「灰被象嵌縄文壺」が並んでいました。上品な赤の扁壺と穏やかな色合いの縄文模様の円壺をながめつつ、在りし日の島岡達三先生を偲びました。
電話番号が簡単に調べられ、それを教え合い、電話の話をすぐに信じてもらえたあの古き良き時代もまた偲びました。