1970(昭和45)年11月25日

50年前の今日、午前中は医学部の講義でした。
午後、私は完全フリーでした。一部の学生はフリーではありませんでした。組織学の追試があったからです。友人がこの追試に引っかかりました。私は昼過ぎ下宿に戻り、午睡を楽しみました。暗くなり始めた夕方に目覚め、大学に戻りました。医学部本館の前でその友人と待ち合わせました。
「試験はどうだった?」
「いや、大したことなかった。教授と世間話のような問答をしたら合格だって。」
2人でタクシーに乗り新宿・花園神社近くのバーに向かいました。その店は友人の兄がウィスキー会社に勤めている縁で何度か飲みに行っていました。午後7時ごろ店の扉を開けて入るとかなりの人が既に飲んでいました。席を見つけて何を頼むか相談していると周りの人が三島由紀夫の名前を何度も挙げていました。近くの人に聞いて初めて自衛隊市ヶ谷駐屯地での事件を知りました。しかし店にはテレビもラジオもなく、真偽が不明でした。私たち2人は追試合格を祝い飲みました。しかし市ヶ谷の事件が気になり、早々に私は下宿に戻りました。
下宿の郵便受けから朝日新聞の夕刊を取り出し部屋に移動しながら事件の概要を知りました。一面には騒動後の総監室内部の写真が大きく載っていました。見てはいけないものが隅に写っている衝撃的な写真でした。
下宿にはテレビがありません。ラジオで追加の情報を得ました。何も知らずに午睡に耽っていたことになります。

以来、なぜだ、という疑問が頭を離れませんでした。最後の作品となった「豊饒の海」は第1巻から発売と同時に買って貪るように読んでいました。作品の奥にある意味はわからないことが多かったのですが、運命・輪廻転生を漠然と思い描くことはできました。超越的な作家だと畏怖しました。肉体への劣等感、その反動のボディービル、性癖の噂、自衛隊体験入隊、縦の会は知っていました。ただこれも趣味の問題と捉えていました。
作品は緻密な筋書きと的確な言葉の選択、幅広い深い知識でいつも圧倒されました。それがあのような荒唐無稽な事件を起こすとは、どうにも理解できませんでした。
事件直後から様々な見方が出ました。しっくりしませんでした。ある程度自分なりに納得したのは、翌年2月に発刊された「豊饒の海」最終の第4巻「天人五衰」を読み終えたときでした。その巻の最後に「「豐饒の海」 完。(改行)昭和四十五年十一月二十五日」とありました。その原稿は決行の日の朝、三島が自宅を発ったあと女中から編集者の手に渡っていました。しかし原稿自体はもっと前に仕上がっていたとも言われます。いずれにしても「豊饒の海」、「天人五衰」は遺書だったはずです。最終章は、存在の全てを否定することで終わっていました。のちに三島のニヒリズムと言われました。
私が何となく感じたのは、フィクションをノンフィクションにさせる覚悟、1回きりの芝居上演、しかも自分の死を演じ自らが実際に死ぬという大芝居。世界のストーリーテラー、古代ギリシャ作家もシェークスピアもサマーセット・モームも成し得なかったことを三島由紀夫は成し遂げた、ということではないか。ただし、最後の場面(檄とバルコニー演説)の非現実性・唐突さの謎は残りました。
自衛官に配った檄の結びはこうです。
「われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、眞の武士として蘇へることを熱望するあまり、舉に出たのである。」
しかし、自衛官は誰も呼応しませんでした。このギャップ。「なぜ」の謎は残りました。

その後、三島関係の本を漁っていきました。多くの解釈を読みました。父親の平岡 梓が事件1年半後に出した「倅・三島由紀夫」で三島の幼児期から死の直前・直後までを丁寧に詳しく書いていました。自分の妻、すなわち三島の母親の女性としての、母親としての直感と観察も多くの記載がありました。それを読む限り、三島の本質を見抜いていたのは父親ではなく母親だった印象があります。しかし父親は著書の最後の最後で息子の死を次のように総括しました。
「元来日本人には昔から青い目は生まれないという約束になっているのですから、僕の家も大昔から黄色い目の筋が通って来ているのです。そして倅も日本人として純血の黄色い目を誇りとし、従がって現代日本の恐るべき世相に痛烈な義憤を感じ、文学より急廻転して思想問題の本を死物狂い読破し、その研究に没頭し、日増しにその速度を早め、畢竟言論のむなしさを痛感し、そのたのむに足らざるを識り、文を捨て、武を採って止むに止まれず遂にあの挙に出たものと僕は考えざるを得ないのです。」
それでも最後の非現実的な荒唐無稽の説明がつきません。「天人五衰」の最終章とも合いません。

様々な証言・解釈を読み、私のまとめは以下のようになりました。
三島由紀夫は作家として最後の大作「豊饒の海」を残した。自己の芸術表現を古典的な意味での文学として残した。さらに、フィクションをノンフィクションと一体化させ「誰も成し得なかった前代未聞の両立」を企図し実行した。事実として残ったあの筋書き以外に最後の芝居はできなかった。一般の概念では荒唐無稽であってもそれは小説(ロマン)だから荒唐無稽なのだ。呵呵大笑の三島の顔が思い浮かぶのです。

その後、私は本格的に医療にたずさわるようになりました。人の命というものと向き合うようになりました。その立場で三島の最後の行動をみると、芸術や思想の面だけから考えるのは疑問だと思うようになりました。それを突き詰めていくと次の結論にならざるを得ませんでした。すなわち、これは犯罪だ。若者を巻き込んだ犯罪だ。多くの人に身体的・精神的な苦痛を強いた。芸術だから、三島だから許せるものではない。そこだけは絶対に外してはいけない、と思うようになりました。

今年は三島由紀夫没後50年。マスコミは特集を組んで報じています。私自身はかつてのように思索することはなくなりました。
この問題をいつまでも引きずっていくわけにはいきません。人生の残りが短いのです。没後50年を期に、浅はかと言われても終止符を打ちたいと思います。