一昨日の朝日新聞に「『生きる選択 できる社会に』 ALS女性 ケアチームの思い」の記事が載っていました。
亡くなられたALS(筋萎縮性側索硬化症)女性を24時間支えていたのは医師・看護師・ヘルパーら約30名のケアチームでした。
記事から抜粋します(「カッコ」内が記事の文章)。
「支援のあり方について意見を交わしながら交代で見守ってきた」。「胃ろうや入浴、着替え、空調の調整など24時間態勢での付き添いは『たんの吸引1つが遅れるだけで命に関わるような切迫した介護だった』。それでも7年間、感染症や肺炎にかかることはなかった」。
「友人らがクラシック音楽会を企画し、会場に連れ出したことも。昨春には、音楽療法の専門家を自宅に招き」、「ベッドのすぐ横でバイオリンを奏でた」。女性は「いずれも涙を流して聴き入った」。
「支援者が子猫や犬を連れて行ったり、友人が海外から訪ねてきたりすることもあった。自宅には友人にプレゼントされた絵画やアート作品で飾られていた」。
女性の「ブログには『ネコが大好き』とする記事があった。訪問看護師が連れてきたエピソードを紹介し、生後2カ月の『ミントちゃん』をひざにのせた時のことを『キラキラ光る真っ直ぐな瞳に本当に癒された』と記していた。『NY(ニューヨーク)から友達が会いに来てくれた。毎年帰国した際に必ず訪ねてくれる』『毎年マッサージしてもらう』とも」。
この記事を読むと、ケアチームの人たちの懸命な介護と支援、それを受けての女性の感謝・感動の姿が目に浮かびます。
不思議に思うのは、それでもこの女性は別の望みを持っていたということです。どうしてそれに気づかなかったのでしょうか。
記事にはこう書かれていました。
「長く寄り添ってきたメンバーの一人は『想像もしていなかった』と語る」。
こうも書かれていました。
「患者のSNSは診察や介護への不満がつづられることもある。本人がストレスをはき出せるよう、あえて見ないようにしていた」。
「患者」とはこの女性のことなのか、一般的に患者のことを言っているのか、分かりにくいのですが、「あえて見ないようにしていた」と過去形で書かれていますので、女性の不満をあえて見なかったのは確かなようです。その理由として挙げているのが「本人がストレスをはき出せるよう」でした。
その理由の適否はここでは問いません。
一連の報道の中で私が常に考えていたのは「では、真に寄り添うにはどうすればよいか」。
ある女性に尋ねてみました。
10年以上、筆舌に尽くしがたい病苦と闘ってきたかたです。手術を10数回受け、今も苦しんでいます。それでも常に前向きに生きているかたです。
「私もこの女性と同じことを考えます」。
にこやかに、しかし毅然と答えられました。
医療者は、社会は、さらに何をすべきでしょうか。