Hizako (膝子)

私のスマートホンには新聞各社のアプリがインストールされています。主に各紙の社説を読むためです。日本だけでなく、海外のもあります。海外メディアはアメリカのUSA Today紙とドイツのSpiegel誌です。
あるとき、USA Today紙の記事を覗いていると天気予報のサイトに当たりました。ニューヨーク、ロサンジェルス、シカゴの天気が載っていますが、最初の都市名はHizakoです。はて、アメリカにニューヨークと並ぶHizakoなる都市はあっただろうか。そう思って海外版のWikipediaで調べましたが情報はありません。ボタン操作をして分かったのは、HizakoはSaitama (Japan)とのこと。
Hizakoって、うちの病院近くのあの膝子公園の膝子!?(2019/5/14ブログ参照)。ちょっとびっくり。膝子にアメリカ軍の基地あるいはアメリカの何かの施設でもあるのかと思いました。が、それらしいものはありません。最初にアプリを開いたとき、現地登録で病院近くのHizakoを選んだのかもしれません。自動的にそう設定されたのかもしれません。しかし、私には設定の記憶がありません。自動設定の機能もないようです。今もって謎です。

それにしても、膝子とは面白い名前です。ウイキペディアや郷土史家のブログ、さいたま市のサイトなどを参考に膝子の由来を調べてみました。いろいろな説があるようです。形態異状(奇形)の赤子が膝のように見えて、その子を丁重に葬った。形態異状児(奇形児)は蛭子(ひるこ)とも言うがそれが訛って膝子になった。いずれにせよその子を祀った塚が膝子塚として残っていることが分かりました。その場所を地図で調べると、膝子一里塚が近くにあることも分かりました。

いずれも日光御成道(おなりみち)沿いにあります。御成道は将軍の日光社参専用街道です。本来の日光道の西を走る脇街道で、中山道との分岐点・本郷追分から川口・岩槻を経て、幸手(さって)宿で本道に合流します。膝子一里塚は江戸から八里(約32km)に位置します。一里塚のすぐ手前右手には御膳所(休息所)の光徳寺があります。街道の西側一帯は、江戸時代初期から中期まで見沼溜井(ためい)が広がっていました。八丁堤(東浦和付近)の堰止めでできた湖沼です。光徳寺で休息したあと、籠を進めると見晴らしのよい場所に出ます。湖面の向こう岸には西福寺の森が見えます。見沼溜井は江戸中期に干拓されました。それ以後の将軍は見沼田んぼのコウノトリを眺めながら最初のお泊まり、一里先の岩槻宿に向かったはずです。
ウィキペディアによれば、将軍の日光社参(家康の命日である旧暦4月17日に参拝)は合計19回行われ、うち10回は3代家光だったとのこと。堰止めと干拓の年代から考えると、見沼溜井を眺めたのは家光と4代家綱の2人、見沼田んぼを見たのは8代吉宗・10代家治・12代家慶の3人だったと思われます。

診療の合間、散歩がてらに日光御成道をたどると、往時の行列と地形が目に浮かびます。膝子上空の航空写真(グーグルマップ)で、見沼田んぼに再び水をたたえ、溜井の風景を再現してみました。日本晴れだと富士山が見えます。
なぜ、子の秀忠、孫の家光は、脇道に入ったのか。
「(駿府の)富士を見て、青葉若葉の日光へ」だったのではないか。

我が地、膝子は色々教えてくれます。